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私のアメリカ留学 事前準備編

 

 

 

「私のアメリカ留学 事前準備編」(1)国際部聴講生になる

 

      随分昔の話になるけれども、私が70年代の半ばに、はじめは早稲田大学の交換留学生として、ついで正規の学生としてアメリカ、ミシガン州のカラマズー大学に行くことになったのは、思いがけないことの連続があったからである。留学には興味がないわけではなかったが、自分が行くことになろうとは当初は思っても見なかった。大体そんなことを 30年も前の日本のごく普通の家庭で言っても、しかるべき留学試験に受かって、無料で行って来るのでなければ、とんでもない贅沢で、相手にはされないのが落ちだったから、私にとって留学などは全くの夢物語だったのである。 

      事の始めは私が古くから交換留学試験制度のある早稲田大学にいたところから始まる。今もそうなっているとは思うが、当時早稲田大学の国際部には聴講生システムがあり、学内で選抜試験に受かれば、第二学期(9月―12月)にアメリカ人の学生と一緒にクラスをとってもよいことになっていた。今にして思うと、これはどちらかというと聴講そのものよりも交換留学希望者のための基礎訓練の場を提供していたのである。外人の学生と一緒に勉強が出来るという、こういった情報は私はぼんやりしている方だったのでESSに所属していたために入ってきたのだと思う。早稲田にいた人は知っていると思うが大きな英語のクラブはWESS(Waseda English Speaking Society)とWESA(Waseda English Speaking Association) というのがあって、私は前者に属していた。それで私は留学などは全然念頭にないまま何となく腕試しのつもりでその試験を受けてみたら、思いがけなく受かってしまったので、まずは国際部の聴講生になることができた。

      そのときの試験の倍率は何倍だったのかは覚えていない。そんなに沢山日本人の学生に入られては困るので、一クラス三人までの制限があった。ちょうどプロ野球の外人枠と同じようなものである。だから聴講希望者が多いときは倍率はどんどん上がるのだろう。私が受けたときは少なくとも5,6倍はあったのかと思うが、試験場の記憶が全然ないため見当がつかない。 

      元々国際部のサイズは余り大きくはなく、外国人の留学生の数はせいぜい100人から150人ぐらいだった。Faculty(教授陣)は提携先の大学から来た外人教授たちと、学内で国際部の科目に関係したことを教えている日本人の教授たちから成っていた。聴講生になって何という科目を取ったのかは定かではないが、比較文化のようなものだったと思う。私の取ったクラスの人数は10人程度だった。このクラスの先生は中年の某学部から来ていた痩せぎすの女性の助教授で、余り英語は上手ではなかったように記憶している。だから言っていることは我々にも十分わかった。表現能力が十分でなかったので、しゃべるときに適切な単語と構文を捉えようとして時間がかかりすぎたのである。時々「あー・・・」と言っては、宙を見ながら言葉を探していた。動作の遅いコンピューターと付き合っているようなものだった。このような先生がアメリカの大学で教えようものなら、たちまち吊し上げにあって首になる。

      ちなみにこのクラスを聴講していたのは私とあと二人、一人は眼鏡をかけて、やせた感じのいい男性がいたような気がするがよく覚えていない。もう一人は女性で、一緒の席で聴講していたからよく覚えている。クラブはWESAに属していて、第一文学部で第二外国語を中国語にしていた菅沼さんという女子学生であった。(当時の文学部は三年から専攻が決まった。)やや小柄だが眉目秀麗でバイタリティーがあった。「あの先生、へたくそな英語ねー、あんなのだったら私にだって出来るわ。これじゃアメリカ人の学生がかわいそう。」とよく言っていた。アメリカ人の学生たちはというと、あきらめきった表情で、口をぽかーんと開けて、シーンとしていた。菅沼さんの発言はこのような状況を踏まえての悲憤慷慨であった。一方、先生の方も自分の英語に満足していないのはありありと分かった。繊細で、自尊心も強いタイプなので、我々聴講生をちらっと見ては時々当惑したような顔つきをしていた。勿論この先生は相当な能力があるのだが、英語の訓練が自己流でうまく行かなかっただけなのである。菅沼さんとは気が合ったので、このクラスに行くのが結構楽しかった。(続く) 9/10

 

私のアメリカ留学 事前準備編 (2) 国際部のロビー

 

      当時の国際部は蔦の絡まる四階建てぐらいのこじんまりした古い建物だったように記憶している。二階以上が教室で、一階は事務室と学生のロビーのある部屋からなっていた。建物の古さから言って、元々は他の学部が使っていたものだった。学生のロビーとしてあてがわれたところも元は教室だった。その部屋の真ん中にテーブルを重ね合わせて、周りにベンチをおいて、授業の合間や終わった後、学生たちはここへ集まって雑談をするようになっていた。聴講生たちは授業の前か後にここへ顔を出して彼らの話に耳を傾けたり、社交的になることで、外人留学生たちと知り合いになり、自然にアメリカ留学への下準備が出来る。

      ポール君という小柄で長髪気味の日系の三世とよく顔があって、向こうがニコッと笑ってくれるので、いろいろ話をしたことを覚えている。そういえば、ポール君は日本語が完全に話せたので、彼とは日本語でしゃべっていた。彼の言っていたことの中で一つだけ覚えていることがある。日本人の英語には要らない音が混じっていると言っていた。日本人は知らない間に母音を引きずる傾向があるのである。たとえばpleaseというとき、[pli:z] とならないで[puli:zu]となってしまうということである。

      ある日、さわやかな秋晴れで、時間があいていたので、顔見知りの外人女子学生に声をかけた。確かリサという名前だったと思う。天気がいいから散歩に行かない?と言ったつもりが、”The feather is so fine, so let’s take a walk.” と言ったら、相手はくすっと笑い、”Weather”と言いなおしてくれてから、”Ok”といって、一緒にどこかへ歩いていったことがある。そのあとどこへ行ったのかは記憶がない。(続く) 9/12

 

 

私のアメリカ留学 事前準備編 (3) 試験申し込みまで

 

      国際部の聴講をしているうち、あるとき菅沼さんが「私は絶対アメリカに留学したい。来年の一月に留学試験があるから、絶対受かってみせる。」と言い出した。そのときは何を突然そんなことを言うのかと思っていたが、国際部で聴講をする人は留学を意識している人の方が多いのだった。年に一回、アメリカ交換留学の試験があり、受かれば一年間授業料と、寮の生活費も免除で、アメリカの大学で過ごせる。一月と言えば学部の試験が重なる時期だからそんなことに準備をしている暇はないな、と私は思っていた。11月ぐらいになって、留学試験の日時と受験の申込期間が国際部の掲示板に貼ってあるのを見かけたが、自分にはほとんど縁のないものと思っていた。

      12月のある日、留学試験のことなどはすっかり忘れて、当時の早稲田の第一学生会館の一階のロビーがWESSのたまり場だったが、昼休みにそこでくつろいでいた。するとテーブルを挟んで私の前に座っていた、政経にいて、今はニチレイに勤めている亀岡君というおっとり型の友人が、「今日が留学試験の申し込みの最終日だな」と、いつものようにほほえみながらフワッと言いだしたのである。このとき亀岡君の前に座らなかったら、留学試験を受ける可能性は全くなかった。それはまさしく見えない運命の手が私を引っ張っていたのだとしか言いようがない。そこで私は、そういえば留学試験なんてものがあったのだ、と思い出した。いったんそれに気がつくと何だかもったいないような気がして「申し込みはただなのかな」というと亀岡君は「ただで受けられる。」というのである。申込用紙は各学部の事務所にあるので、その日の午後五時までに、自分の所属する第一文学部の事務所でその用紙に名前と学生番号等を書くだけでいいということであった。

      たまたまその日の午後は授業がなかったので、この件について少し考えるゆとりがあった。早稲田通り沿いで、阿部球場の脇のグランド坂上にあるミヨシというパチンコ屋で、今は全くやらないパチンコをして遊んでみたが、どういう訳か玉が出ないし、お金もなくなってきた。パチンコをしながらどうしようか迷っていたのだ。このときパチンコがどんどん出ていたら、そのまま申し込みをしなかったかも知れない。 というのも試験の時、国際部の聴講試験の時と同様、クラブの知り合いの連中と顔を合わせることが分かり切っていたからだ。落ちた場合のことを考えると、格好が悪いので気が進まなくなる。しかし他にすることもないし金もないから、夕暮れの道を一人とぼとぼと文学部の学生課へ向かって歩いていた自分を覚えている。何となく迷いながらも、 ひそかな期待を以て申し込みをしておいた。後は学部の試験と同じ日にかち合っていなければ受けることは出来るのである。かち合っていても留学試験を優先して学部の方を追試でやる人もいるが、私にはそれほどの強い動機はなかった。(続く) 9/16

 

 

「私のアメリカ留学 事前準備編」(4)試験日まで

 

      申し込みをしてから試験日までは一月半ぐらいで、しかも学部の試験と重なるので、そのための特別な準備をしている暇はなかった。たまたま私は国際部で聴講をしていたので、試験の時,ヒアリング試験のスピーチをするアメリカ人の先生の見当がついていた。この人が専攻している科目の一般的な知識のボキャブラリーをつけておけばいいのではないかと思って、それに関係したものが載っていそうな英文の季刊誌 Asahi Quarterly の記事を少し研究したような気がする。とはいってもほかのことに気を取られていたのでほとんど準備はしなかった。
   冬休みの前か後かよく覚えていない。学部の試験の日程が発表された。留学試験の方の試験時間はその日の午前9時過ぎぐらいから1時間半ぐらいかけてやるのだったと思う。同じ日でもこの時間帯に重なっていなければ受けられた。発表された学部の試験の日程表をよく見てみると教養科目の一つがその日の朝一時限目にあって重なっていた。時間がかち合う確率は低い方なのに当たってしまったのだ。もはや万事休すである。これで私は留学試験を受けることは完全に諦めてしまった。私としては受けなくてもいい のでほっとした気分もあったが、やれば受かるかも知れないのにと、うらめしい気持ちにもなった。こういう複雑な気持ちを持ったのは先にも書いたように試験に行けばWESSの連中がいて、誰が受かり、誰が落ちたかが一目瞭然となり、落ちた場合、格好悪いからだ。しかも英語が出来るWESSの人たちでもかなりの実力がないと通らない試験だという下馬評があった。反対に受かれば、出来る人として認められる。私の場合、留学への動機が希薄であったため、こういったメンツに関わる心の揺れに左右されていた。
   1月に入って、一体その日は何日だったのだろう。16日だったように思う。いよいよその留学試験の日が来たが、受かるかどうかも分からない試験よりも学部の試験優先だったので、その朝8時半頃、あの頃のお気に入りの臙脂(えんじ)色の皮のコートを着て、戸山町の文学部のキャンパスへ向かって歩いていった。学内へ入ったとたん思いがけないことが起こっていることに気がついた。校舎の方から走っているなだらかな坂道を学生たちが戻って来る光景だ。顔見知りの文学部にいるWESSの人たちも校舎の方から戻って来たのだ。「どうしたの」と私が聞くと。「校舎の中が革マルによって占拠されて試験は中止になった。」というのである。私はこの瞬間、オーッと心の中で歓声を上げた。やっぱり留学試験はやってみたかったのだ。よーしやってやろう、と覚悟を決めた。万一受かれば、まだ見知らぬ国、アメリカに行ける。受かれば親も反対しないだろう、という見込みもあった。宝くじよりははるかに確率が高いし、運が良ければ受かる。革マルは余り好きではなかったがこの時ばかりはいいことをしてくれた。私と同様、学部の試験を優先していたWESSの知り合いたちと 一緒に、そのまま試験場の国際部へと向かって行った。  (続く)9/24

 

「私のアメリカ留学 事前準備編」(5)  留学試験場

 

 

      戸山町の文学部のキャンパスから早稲田のメインキャンパスまでは馬場下の交差点を通って、歩いて5分ぐらいだろう。さらに国際部の建物まで2,3分。試験の10分ぐらい前に着いて間に合った。試験場の教室では案の定WESSの人たちを沢山見かけた。私が顔見知りの名前を大声で呼ぶと、彼は「シッシッ、よせよせ、呼ぶな、呼ぶな」というようなジェスチャーをした。やっぱりみんな隠れて受けていたかったのだ。そこには勿論あの菅沼さんの顔も見えた。そのあと、自分の席に座るとき、とんでもないことに気がついた。私の座るべき席が最後列から二番目だったのである。これは落とされるかも知れないと思って愕然とした。後ろの方だと、スピーチの声が不明瞭になり聞き取りにくくなるのだ。150人ぐらい入る教室で私の受験番号はたぶん130番台だったのだろう。受験者たちはちょうど教室一杯にあふれていた。合格して交換留学生になれるのはたったの15人だと聞いていたから、これは厳しいことになったと思った。何でこんな事が起こったかというと、理由は簡単だ。私が迷いに迷って最終日のしかも終わり頃に申し込みをしたからだ。おそらく申し込みを学部ごとにまとめてしていてくれたため、最後列にならなくてまだよかった。もしも当時オンラインなどがあって、それで申し込んだ場合は最終列の最後尾だっただろう。このハンディは集中力で跳ね返すしかなかった。
   試験は外人の教授が英語で30分ぐらいレクチャーをする。その内容をノートして、その後で渡される問題に対して英語で解答していくというやり方である。英語のレクチャーのヒアリングはキーワードと内容全体の輪郭がつかめれば、細かいところは分からなくとも類推によって何とかなるものだ。しかしキーワードを見失っていて、内容がつかめないと全部分からなくなる。ここでまず篩 (ふるい)にかけられる。次に分かっているものの中で、どれだけ正確に分かっているか、が試される。それらをどれくらいのレベルの英文で書けているかでまた試される。このような仕掛けであった。
   話は逸れるが、当時は今のように洋画のビデオのような便利なものがなかったから、英語のヒアリングを鍛えるには、私の場合は、高田馬場にあったパール座という名画座映画館へ時々行って、同じ映画を5回も見たことがある。それはオードリー・ヘップバーンの「いつも二人で」という映画だった。一回目だけ字幕を見て、あとは見ないで集中して聞いているのである。ヘップバーンはお気に入りの女優だったので、そのほかにも、「ローマの休日」、「シャレード」、「ティファニーで朝食を」など何回か見たように覚えている。
   試験が始まった。インディアナ州アーラム・カレッジの教授が日本とアメリカの政治、経済、文化の比較のようなレクチャーをした。英語でAll Ears という表現があるが、この時の私はそれだった。レクチャーの英語はややゆっくり目であったから、映画の英語よりは余程聞き取りやすかった。自分の人生でこの時ほど集中したことはないだろうというほど集中した。火事場の馬鹿力に加えて名画座仕込みのヒアリング能力で、聞きながら要点をどんどん書くことが出来た。与えられた問題群に対しても一つを除いては、まずまずの線で書くことが出来た。限られた時間内ではよくできた方だろう、10倍の倍率だったが、もしかしたら受かったかも知れないという手応えがあった。あとは発表を待つだけだ。 (続く) 10/3

 

「私のアメリカ留学 事前準備編」(6) 合格発表

   二週間ほど経って試験の発表の日が来た。発表の時間は午後3時頃だった。授業もなかったので私は発表の時刻に合わせて国際部の方へ行ってみた。時間の空いていた受験生たちは、合格者の所属学部と名前とが書かれた模造紙が壁に張り出されるその現場に居あわせた。固唾をのんで事務員の男性がその張り紙を貼る光景を見ていた。一体どうなっただろうかと、この瞬間を待ち望んでいた人たちは国際部の1階の事務室脇の壁に合格者名簿が張り出された瞬間、その合格者氏名にしばらく釘付けになった。本当にたったの15名であった。その15名の合格者の名前を見ていくと、驚いた事に私の名前がその中に載っているではないか。それほど強い動機で受けたわけでもなかったのに受かってしまったのだ。うわー大変なことになってしまったな、と思った。それでも後からこみ上げてくる喜び に満たされて、その時は私の人生で一番うれしかったときの一つではなかっただろうか。それはまさに夢のような出来事だった。自分が太平洋を隔てたアメリカへ1年間も行っていられて、それも大学の中でアメリカの学生たちと一緒に生活することが出来るんだという、そんなことが本当に起こるのだろうかと、まだ何となく実感の湧かない、ぼんやりした期待に包まれた喜びを味わっていた。
   ふと周囲を見ると、国際部の聴講でいつも一緒の席に座っていた菅沼さんの顔が見えた。彼女は呆然としていたのだ。合格者の中には菅沼さんの名前はなかった。勿論彼女は私の名前が載っていたのに気づいていたから、私の顔を見ると「あー残念!」という表情をして、だんだんと嘆きの表情に変わっていった。留学試験は2回受ける機会がある。私はたぶん「大丈夫だよ、また来年があるから。」と慰めたような気がする。どさくさに紛れて彼女を抱きしめてしまった。実際その翌年菅沼さんは雪辱を果たして合格し、米国へ留学している。菅沼さんとは1 4年ぐらい前、銀座の三愛あたりを歩いていたとき偶然出会って、英国の証券会社S.G.ウォーバーグのロンドンにいることが分かった。「ハイリスク、ハイリターン」などと当時としてはハイカラな金融用語を使って自分の仕事の説明をしていた。いい年なのにまだ独身でいた。その後どうしているかは定かではない。
  家へ帰ってから、留学試験の発表があって、受かったことを両親に知らせ、興奮した私は「アメリカに行ける!アメリカに行ける!」と思いがけなく受かってしまった幸運に、座布団をたたいて喜んだ。亀岡君の一言や、革マルの突然の校舎の占拠という偶然が重ならなければ試験を受けることにはならなかった。試験の最中は頑張ってはみたものの、本気で準備していたわけではなかったので、まさかこんなことになるとは思っても見なかったのである。 (続く) 10/9

 

 

「私のアメリカ留学 事前準備編」(7) 学校選び

 

   筆記試験でほとんど片が付いてしまうのだが、実はそれに続く、面接試験というのが一応ある。これは、早稲田の代表として派遣されることになるので、もしも見るからに異常性格のような人がいた場合、行かれては困るので、それのチェックである。留学したい動機、行ったらどんな風にしたいかなどを聞かれた。無事にこの関門も通り抜けて晴れて留学予定者になれた。
   こうして私はどちらかというと思いがけなく、棚からぼた餅のようにしてアメリカ行きの切符を手にした。次の段階は一体どの大学へ行くことになるかという問題が持ち上がる。早稲田が提携していたアメリカの大学は大きく分けて二つに分かれていた。一つは五大湖周辺の私立学校群、もうひとつは太平洋側に面した、カリフォルニアとオレゴンの州立大学群である。
   一般にアメリカの大学は私立学校の方が学費も高いし、レベルも高い。行くからにはなるべく偏差値の高い学校へ生きたいものだと思っていた。合格した15名の上から半分が五大湖地方、つまりオハイオ、ミシガン、イリノイ、ミネソタ、インディアナ、ウィスコンシンといういわゆる中西部の典型的なアメリカの私立学校へ行ける。そして下半分が太平洋側にある州立大学へ行くような割り振りになっていた。それで始めにどちらのグループに属するかの発表があった。特に上半分で受かったような気がしたわけではないが、 相当な高得点を出していたらしく、五大湖周辺の私立学校の方へ回してもらった。

   さてここでまた極めて厄介な問題が持ち上がる。これらの大学の中で一つだけ男子校があるのだ。その名もWabash Collegeという。仮に8人が五大湖地方の大学へ行くとしても、男女半々ぐらいだから、男性は4人しかいない。ほっておくと25%の確率で男子校へ行かせられるおそれがあった。ただひたすら英語の勉強だけしに行くつもりなら、男子校も共学も関係ないのだろうけれど、そうなった場合のことを想像すると、何とも殺風景な気分になった。気の合う女性がいたら週末に・・・というロマンスの夢も希望もなくなってしまう。もともと思いがけなく手に入れた権利なので、勉強だけしに行こうなどというつもりは毛頭なかった。せっかくアメリカへ行くのに男子校へ入れられるのだけはやめにして欲しい。何か対策はないだろうかといろいろ調べていたら、ミシガン州のカラマズー・カレッジ(Kalamazoo College)は交換留学生が日本語を教えるのが条件になっていた。
   そこで私はそのころ新宿の西口から少し歩いたところにあった日本語教育センターのような所へ行って資料をもらい、提案の仕方を研究してから、日本語を教える事にとても興味があり、熱心に教える用意があると、担当の外人教授に説きつけた。すると彼は五大湖地方の大学のレベルの一覧表を示し、Kalamazoo CollegeはAランクの大学で 留学試験の成績がよくなければだめだよ、という顔をした。たぶん彼は私が男子校に行きたくないからそんな申し出をしたんだという本心を見抜いていたのだと思う。それを見ると、五大湖大学連盟と中西部大学連盟の二つの連盟からなる40校ぐらいのリストではほとんどがBランクで、AとCが数えるほどしかなかった。Kalamazooはミシガンでは一番いい大学だということだった。勿論有名なミシガン大学よりもいい。これ以上にいい大学はミネソタのカールトン(Carlton College)とオハイオのオーバーリン(Oberlin College)ぐらいで、その年はOberlinからオファーがなかったので、もし私がKalamazooに行けるとなると、派遣先の大学の中で何と二番目にいい学校へ行くことになるのだった。 この外人の教授は私の試験の結果を確認してから判断すると言って、それでおわりになった。 (続く) 10/16

 

 

「私のアメリカ留学 事前準備編」(8) オリエンテーション

      それぞれの留学生が行く大学が発表された。これはおそらく4月頃だったのではないか。結局カラマズーへ行けることになった。二番目にいい大学へ行けることになったのだ。 準備なしでやったにもかかわらずやはり相当いい成績で受かっていたのだ。 大騒ぎしなくてももともと2番だったのか、あるいは1番だったのかも知れないが、今となっては知るよしもない。カラマズーという一寸変な名前は、ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」に似ているが全然違う。この言葉はインディアンの言葉で、Boiling Pot(煮立った鍋)という意味である。ミシガン州の南にあり、シカゴとデトロイトのちょうど中間にある人工20万ぐらいの大学の町だ。

     前回に書いた私がした行為、つまり日本語を教えることに興味があると主張して、男子校へ行くことを避けたことは、誰か男子校のWabashに回された人のことを考えると自己中心的だったかも知れない。そこでちょっとこれを読んでいる読者の方々だけに告白することだが、私は高校時代に、まだ納得して信じていないのに教会で洗礼をうけたことが裏目に出て、悩みすぎで神経症的傾向になり、勉学がうまく行かなくなった。浪人をしてから、ある時、一転して悟りを開き、心の組み替えが起こって、それ以来東洋の老荘や、禅などが分かるようになった。これがきっかけになって、もともと文化系なのに、突然、精神科医になろうと理科系に志望を変え一時、国立の医学部へ入る準備をしたことがあった。自分の知能指数の高さに頼ってやったのだがうまく行かず、結局時間切れで文学部へ行くことになって、実は大学へ入るのが数年遅れているのである。それで、この年で男子校などへ行かされるのは惨めすぎるから、現役で入って留学できる人に男子校はなるべく肩代わりしてもらいたいと思ったのだ。全く何もしなくても、こういう形になっていたかも知れないが、ともかくその人には悪かったと思っている。
   今度は具体的なオリエンテーションが始まった。アメリカの大学へ行った際に過去の留学生たちの経験から注意しなくてはいけないことがいろいろある。それらをよく飲み込んでおかなくてはいけない。これには国際部の事務の女性たちが手伝ってくれて何回かミーティングがあったと思った。そのうちの二回ぐらいは学部長の田代先生直々のお出ましとなった。この先生は面長で、俳優の藤田まことをやさしくした感じの、親切な人柄の年輩の先生だった。事務の女性たちは毎年留学した人たちの失敗したことなどについて、いろいろなケースを把握している。特に注意されたのは、迂闊にマリファナパーティに行ってはいけないということであった。ある年の女性の留学生で、自分はマリファナを全然吸っていなかったにも関わらず、たまたまその場に居合わせただけで、警察の手入れが入ったとき、検挙されて、日本へ強制送還になってしまったということだった。
   既にカラマズーへ行って帰ってきた、留学について先輩格の学生にも紹介された。この政経の学生はスケールの大きな磊落な学生でスケコマシという言葉を何度も使っていたことからして、向こうで女の子を何人も手玉に取って、いい思いをしてきたらしい。この人からカラマズー・カレッジの外国人学生担当ディレクターのドクター・フューゲートは曲者だぞといわれた。まさしくこの男には曲者の面があったことがその後、行ってから数年して判明した。さらに私は、現在カラマズー・カレッジから早稲田に留学している女子学生リサ・アーチャーに紹介された。前に国際部のロビーのときに書いたリサとは別人だ。一寸アクの強い感じの女性だったが小柄でハスキーで頭も切れるタイプだった。カラマズーには私が行ってから一年経って帰ってきたので、彼女は日本にもう一年延長して滞在したのだ。この女性からカラマズーとはどんなところなのかについて聞くことが出来た。ミシガンの冬は東京よりはるかに寒いので、酔っぱらって外で寝ていると凍死する人もいる。大学は短大を含めて四つある。一番大きな大学はウェスタンミシガン大学で学生数は1万人以上でカラマズー・カレッジのすぐ隣にある。カラマズー・カレッジは1500人ぐらいだ。カラマズーのダウンタウンは散歩にはいいところで、学校から15分ぐらいで歩いて行くことが出来る。郊外にはモールというショッピングセンターがいくつかある。都市としてのサイズは大きくないけれど、道路はゆったりとして、町全体はいつも芝生の手入れが行き届いており、危険も少なく、きれいな過ごしやすい町だということだった。  10/22

 

 

「私のアメリカ留学 事前準備編」(9) スピーチと早慶戦

 

   アメリカに行く前に早稲田の学生生活の中で思い出すことがある。一つはその年のWESSの英語のスピーチコンテストで私が学内で優勝したことである。 三百人中一位だからたいしたものなのかも知れないが、自分としては当たり前のような気がした。入賞した一位から三位まではさらに四大学スピーチコンテストというのに参加して、優劣を競う。四大学の内容は、早稲田、慶応、一橋、立教だ。その年は立教大学へ行ってやることになった。ところがこの年、まずいことにスピーチ原稿を、前の日に早稲田にいる外人の先生に手直しされた。これが祟って、みんな3人ともスピーチの流れが悪くなり、誰もこの四大学のコンテストで入賞しなかった。私などはひどいもので、途中で一カ所完全に忘れてしまい、1分ぐらい次の言葉が出てこなくなり、呆然としたまま時間が過ぎ、みんなをハラハラさせた。せっかくの名演説がこれで全部帳消しになってしまった。ちょうど慶応大学のKESSのチェアマン(部長)がたまたま知り合いだったので、後で顔を合わせたら、「あのときは永久に出てこないのかと思った ぞ。」と心配してくれた。
   早稲田と慶応の年中行事の中で一番重要なのは文化祭(稲穂祭)と並んで早慶戦だろう。東京六大学のリーグ戦の最後に行われる早慶戦こそは学生生活の華で、これに参加しなかった早稲田、慶応の学生は私学の雄同志のよき伝統の重みを知らないで去って行ったと言うことが出来よう。もっとも慶応の方は早慶戦とは言わず、慶早戦という。大学の方も講義を中止して、学生に応援に行くように勧める。私のようにクラブに入っていると、大体その仲間で応援する。入っていない連中は それぞれの学部のクラスの友人たちと応援する。甲子園の高校野球でおなじみのコンバットマーチは、早慶戦の為に作られた。昭和40年早稲田の応援部の三木さんという人が大学4年の時に作曲し たということで、それ以来いまだに使われている。慶応のとんがり帽子も、早慶戦のために生み出された。

   ひとたび応援席にはいると実は野球の観戦どころではない。応援部の要請に応じて、次から次へと応援の連続となる。7回にはエールの交換という儀式がある。男子学生は自分の好きな女子学生の隣に座りたがる。女性の方もそれは同じだ。なぜかというと点が入ったとき応援歌の「紺碧の空」を歌うとき、 隣の人と一緒に肩を組んで応援するのがしきたりになっているからだ。慶応の方も全く同じで点が入ると「若き血」で肩を組む。ずっと昔、戦後すぐの頃から早慶戦をきっかけに仲良くなった男女のことを思うと、早慶戦こそは青春の賛歌だったのではなかろうか。東大に落ちてがっくりしていた学生も、この時初めて早稲田、慶応に入って良かったと思いなおす人たちもいるそうだ。 (続く)  10/28

 

「私のアメリカ留学 事前準備編」(10) 留学直前の断り書き

 

     ひとつ読者にお詫びしておかなければならないことがある。それは私がカメラを持って行かなかったということである。これは本当に大チョンボだ。せっかくの記念に写真をどんどん撮っておけば良かったと後悔している。まさか今頃になって、インターネットというこんな便利なものができて画像を簡単に組み込めるとは思っても見なかった。写真の趣味は特にあったわけではないが、カメラを操作することは問題なく出来たのであるから、今にしてみれば残念でならない。これからいずれ話すことになるサラやエリザベスの若き日の写真が一枚もないのだからまことに残念だ。それでもわずかに他人が撮ってくれた写真とわたしが向こうの新聞に載った写真があるから、その時が来たら載せてみよう。次はいよいよ飛行機でアメリカに飛ぶ場面にしよう。 (続く)11/4   

 

 

 

 

 

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