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私のアメリカ留学 事前準備編
「私のアメリカ留学 事前準備編」(1)国際部聴講生になる
随分昔の話になるけれども、私が70年代の半ばに、はじめは早稲田大学の交換留学生として、ついで正規の学生としてアメリカ、ミシガン州のカラマズー大学に行くことになったのは、思いがけないことの連続があったからである。留学には興味がないわけではなかったが、自分が行くことになろうとは当初は思っても見なかった。大体そんなことを 30年も前の日本のごく普通の家庭で言っても、しかるべき留学試験に受かって、無料で行って来るのでなければ、とんでもない贅沢で、相手にはされないのが落ちだったから、私にとって留学などは全くの夢物語だったのである。 事の始めは私が古くから交換留学試験制度のある早稲田大学にいたところから始まる。今もそうなっているとは思うが、当時早稲田大学の国際部には聴講生システムがあり、学内で選抜試験に受かれば、第二学期(9月―12月)にアメリカ人の学生と一緒にクラスをとってもよいことになっていた。今にして思うと、これはどちらかというと聴講そのものよりも交換留学希望者のための基礎訓練の場を提供していたのである。外人の学生と一緒に勉強が出来るという、こういった情報は私はぼんやりしている方だったのでESSに所属していたために入ってきたのだと思う。早稲田にいた人は知っていると思うが大きな英語のクラブはWESS(Waseda English Speaking Society)とWESA(Waseda English Speaking Association) というのがあって、私は前者に属していた。それで私は留学などは全然念頭にないまま何となく腕試しのつもりでその試験を受けてみたら、思いがけなく受かってしまったので、まずは国際部の聴講生になることができた。 そのときの試験の倍率は何倍だったのかは覚えていない。そんなに沢山日本人の学生に入られては困るので、一クラス三人までの制限があった。ちょうどプロ野球の外人枠と同じようなものである。だから聴講希望者が多いときは倍率はどんどん上がるのだろう。私が受けたときは少なくとも5,6倍はあったのかと思うが、試験場の記憶が全然ないため見当がつかない。 元々国際部のサイズは余り大きくはなく、外国人の留学生の数はせいぜい100人から150人ぐらいだった。Faculty(教授陣)は提携先の大学から来た外人教授たちと、学内で国際部の科目に関係したことを教えている日本人の教授たちから成っていた。聴講生になって何という科目を取ったのかは定かではないが、比較文化のようなものだったと思う。私の取ったクラスの人数は10人程度だった。このクラスの先生は中年の某学部から来ていた痩せぎすの女性の助教授で、余り英語は上手ではなかったように記憶している。だから言っていることは我々にも十分わかった。表現能力が十分でなかったので、しゃべるときに適切な単語と構文を捉えようとして時間がかかりすぎたのである。時々「あー・・・」と言っては、宙を見ながら言葉を探していた。動作の遅いコンピューターと付き合っているようなものだった。このような先生がアメリカの大学で教えようものなら、たちまち吊し上げにあって首になる。 ちなみにこのクラスを聴講していたのは私とあと二人、一人は眼鏡をかけて、やせた感じのいい男性がいたような気がするがよく覚えていない。もう一人は女性で、一緒の席で聴講していたからよく覚えている。クラブはWESAに属していて、第一文学部で第二外国語を中国語にしていた菅沼さんという女子学生であった。(当時の文学部は三年から専攻が決まった。)やや小柄だが眉目秀麗でバイタリティーがあった。「あの先生、へたくそな英語ねー、あんなのだったら私にだって出来るわ。これじゃアメリカ人の学生がかわいそう。」とよく言っていた。アメリカ人の学生たちはというと、あきらめきった表情で、口をぽかーんと開けて、シーンとしていた。菅沼さんの発言はこのような状況を踏まえての悲憤慷慨であった。一方、先生の方も自分の英語に満足していないのはありありと分かった。繊細で、自尊心も強いタイプなので、我々聴講生をちらっと見ては時々当惑したような顔つきをしていた。勿論この先生は相当な能力があるのだが、英語の訓練が自己流でうまく行かなかっただけなのである。菅沼さんとは気が合ったので、このクラスに行くのが結構楽しかった。(続く) 9/10
私のアメリカ留学 事前準備編 (2) 国際部のロビー
当時の国際部は蔦の絡まる四階建てぐらいのこじんまりした古い建物だったように記憶している。二階以上が教室で、一階は事務室と学生のロビーのある部屋からなっていた。建物の古さから言って、元々は他の学部が使っていたものだった。学生のロビーとしてあてがわれたところも元は教室だった。その部屋の真ん中にテーブルを重ね合わせて、周りにベンチをおいて、授業の合間や終わった後、学生たちはここへ集まって雑談をするようになっていた。聴講生たちは授業の前か後にここへ顔を出して彼らの話に耳を傾けたり、社交的になることで、外人留学生たちと知り合いになり、自然にアメリカ留学への下準備が出来る。 ポール君という小柄で長髪気味の日系の三世とよく顔があって、向こうがニコッと笑ってくれるので、いろいろ話をしたことを覚えている。そういえば、ポール君は日本語が完全に話せたので、彼とは日本語でしゃべっていた。彼の言っていたことの中で一つだけ覚えていることがある。日本人の英語には要らない音が混じっていると言っていた。日本人は知らない間に母音を引きずる傾向があるのである。たとえばpleaseというとき、[pli:z] とならないで[puli:zu]となってしまうということである。 ある日、さわやかな秋晴れで、時間があいていたので、顔見知りの外人女子学生に声をかけた。確かリサという名前だったと思う。天気がいいから散歩に行かない?と言ったつもりが、”The feather is so fine, so let’s take a walk.” と言ったら、相手はくすっと笑い、”Weather”と言いなおしてくれてから、”Ok”といって、一緒にどこかへ歩いていったことがある。そのあとどこへ行ったのかは記憶がない。(続く) 9/12
私のアメリカ留学 事前準備編 (3) 試験申し込みまで
国際部の聴講をしているうち、あるとき菅沼さんが「私は絶対アメリカに留学したい。来年の一月に留学試験があるから、絶対受かってみせる。」と言い出した。そのときは何を突然そんなことを言うのかと思っていたが、国際部で聴講をする人は留学を意識している人の方が多いのだった。年に一回、アメリカ交換留学の試験があり、受かれば一年間授業料と、寮の生活費も免除で、アメリカの大学で過ごせる。一月と言えば学部の試験が重なる時期だからそんなことに準備をしている暇はないな、と私は思っていた。11月ぐらいになって、留学試験の日時と受験の申込期間が国際部の掲示板に貼ってあるのを見かけたが、自分にはほとんど縁のないものと思っていた。 12月のある日、留学試験のことなどはすっかり忘れて、当時の早稲田の第一学生会館の一階のロビーがWESSのたまり場だったが、昼休みにそこでくつろいでいた。するとテーブルを挟んで私の前に座っていた、政経にいて、今はニチレイに勤めている亀岡君というおっとり型の友人が、「今日が留学試験の申し込みの最終日だな」と、いつものようにほほえみながらフワッと言いだしたのである。このとき亀岡君の前に座らなかったら、留学試験を受ける可能性は全くなかった。それはまさしく見えない運命の手が私を引っ張っていたのだとしか言いようがない。そこで私は、そういえば留学試験なんてものがあったのだ、と思い出した。いったんそれに気がつくと何だかもったいないような気がして「申し込みはただなのかな」というと亀岡君は「ただで受けられる。」というのである。申込用紙は各学部の事務所にあるので、その日の午後五時までに、自分の所属する第一文学部の事務所でその用紙に名前と学生番号等を書くだけでいいということであった。 たまたまその日の午後は授業がなかったので、この件について少し考えるゆとりがあった。早稲田通り沿いで、阿部球場の脇のグランド坂上にあるミヨシというパチンコ屋で、今は全くやらないパチンコをして遊んでみたが、どういう訳か玉が出ないし、お金もなくなってきた。パチンコをしながらどうしようか迷っていたのだ。このときパチンコがどんどん出ていたら、そのまま申し込みをしなかったかも知れない。 というのも試験の時、国際部の聴講試験の時と同様、クラブの知り合いの連中と顔を合わせることが分かり切っていたからだ。落ちた場合のことを考えると、格好が悪いので気が進まなくなる。しかし他にすることもないし金もないから、夕暮れの道を一人とぼとぼと文学部の学生課へ向かって歩いていた自分を覚えている。何となく迷いながらも、 ひそかな期待を以て申し込みをしておいた。後は学部の試験と同じ日にかち合っていなければ受けることは出来るのである。かち合っていても留学試験を優先して学部の方を追試でやる人もいるが、私にはそれほどの強い動機はなかった。(続く) 9/16
「私のアメリカ留学 事前準備編」(4)試験日まで
申し込みをしてから試験日までは一月半ぐらいで、しかも学部の試験と重なるので、そのための特別な準備をしている暇はなかった。たまたま私は国際部で聴講をしていたので、試験の時,ヒアリング試験のスピーチをするアメリカ人の先生の見当がついていた。この人が専攻している科目の一般的な知識のボキャブラリーをつけておけばいいのではないかと思って、それに関係したものが載っていそうな英文の季刊誌
Asahi Quarterly の記事を少し研究したような気がする。とはいってもほかのことに気を取られていたのでほとんど準備はしなかった。
「私のアメリカ留学 事前準備編」(5) 留学試験場
戸山町の文学部のキャンパスから早稲田のメインキャンパスまでは馬場下の交差点を通って、歩いて5分ぐらいだろう。さらに国際部の建物まで2,3分。試験の10分ぐらい前に着いて間に合った。試験場の教室では案の定WESSの人たちを沢山見かけた。私が顔見知りの名前を大声で呼ぶと、彼は「シッシッ、よせよせ、呼ぶな、呼ぶな」というようなジェスチャーをした。やっぱりみんな隠れて受けていたかったのだ。そこには勿論あの菅沼さんの顔も見えた。そのあと、自分の席に座るとき、とんでもないことに気がついた。私の座るべき席が最後列から二番目だったのである。これは落とされるかも知れないと思って愕然とした。後ろの方だと、スピーチの声が不明瞭になり聞き取りにくくなるのだ。150人ぐらい入る教室で私の受験番号はたぶん130番台だったのだろう。受験者たちはちょうど教室一杯にあふれていた。合格して交換留学生になれるのはたったの15人だと聞いていたから、これは厳しいことになったと思った。何でこんな事が起こったかというと、理由は簡単だ。私が迷いに迷って最終日のしかも終わり頃に申し込みをしたからだ。おそらく申し込みを学部ごとにまとめてしていてくれたため、最後列にならなくてまだよかった。もしも当時オンラインなどがあって、それで申し込んだ場合は最終列の最後尾だっただろう。このハンディは集中力で跳ね返すしかなかった。
「私のアメリカ留学 事前準備編」(6) 合格発表
「私のアメリカ留学 事前準備編」(7) 学校選び
筆記試験でほとんど片が付いてしまうのだが、実はそれに続く、面接試験というのが一応ある。これは、早稲田の代表として派遣されることになるので、もしも見るからに異常性格のような人がいた場合、行かれては困るので、それのチェックである。留学したい動機、行ったらどんな風にしたいかなどを聞かれた。無事にこの関門も通り抜けて晴れて留学予定者になれた。 さてここでまた極めて厄介な問題が持ち上がる。これらの大学の中で一つだけ男子校があるのだ。その名もWabash Collegeという。仮に8人が五大湖地方の大学へ行くとしても、男女半々ぐらいだから、男性は4人しかいない。ほっておくと25%の確率で男子校へ行かせられるおそれがあった。ただひたすら英語の勉強だけしに行くつもりなら、男子校も共学も関係ないのだろうけれど、そうなった場合のことを想像すると、何とも殺風景な気分になった。気の合う女性がいたら週末に・・・というロマンスの夢も希望もなくなってしまう。もともと思いがけなく手に入れた権利なので、勉強だけしに行こうなどというつもりは毛頭なかった。せっかくアメリカへ行くのに男子校へ入れられるのだけはやめにして欲しい。何か対策はないだろうかといろいろ調べていたら、ミシガン州のカラマズー・カレッジ(Kalamazoo College)は交換留学生が日本語を教えるのが条件になっていた。
「私のアメリカ留学 事前準備編」(8) オリエンテーション 前回に書いた私がした行為、つまり日本語を教えることに興味があると主張して、男子校へ行くことを避けたことは、誰か男子校のWabashに回された人のことを考えると自己中心的だったかも知れない。そこでちょっとこれを読んでいる読者の方々だけに告白することだが、私は高校時代に、まだ納得して信じていないのに教会で洗礼をうけたことが裏目に出て、悩みすぎで神経症的傾向になり、勉学がうまく行かなくなった。浪人をしてから、ある時、一転して悟りを開き、心の組み替えが起こって、それ以来東洋の老荘や、禅などが分かるようになった。これがきっかけになって、もともと文化系なのに、突然、精神科医になろうと理科系に志望を変え一時、国立の医学部へ入る準備をしたことがあった。自分の知能指数の高さに頼ってやったのだがうまく行かず、結局時間切れで文学部へ行くことになって、実は大学へ入るのが数年遅れているのである。それで、この年で男子校などへ行かされるのは惨めすぎるから、現役で入って留学できる人に男子校はなるべく肩代わりしてもらいたいと思ったのだ。全く何もしなくても、こういう形になっていたかも知れないが、ともかくその人には悪かったと思っている。
「私のアメリカ留学 事前準備編」(9) スピーチと早慶戦
アメリカに行く前に早稲田の学生生活の中で思い出すことがある。一つはその年のWESSの英語のスピーチコンテストで私が学内で優勝したことである。
三百人中一位だからたいしたものなのかも知れないが、自分としては当たり前のような気がした。入賞した一位から三位まではさらに四大学スピーチコンテストというのに参加して、優劣を競う。四大学の内容は、早稲田、慶応、一橋、立教だ。その年は立教大学へ行ってやることになった。ところがこの年、まずいことにスピーチ原稿を、前の日に早稲田にいる外人の先生に手直しされた。これが祟って、みんな3人ともスピーチの流れが悪くなり、誰もこの四大学のコンテストで入賞しなかった。私などはひどいもので、途中で一カ所完全に忘れてしまい、1分ぐらい次の言葉が出てこなくなり、呆然としたまま時間が過ぎ、みんなをハラハラさせた。せっかくの名演説がこれで全部帳消しになってしまった。ちょうど慶応大学のKESSのチェアマン(部長)がたまたま知り合いだったので、後で顔を合わせたら、「あのときは永久に出てこないのかと思った
ぞ。」と心配してくれた。 ひとたび応援席にはいると実は野球の観戦どころではない。応援部の要請に応じて、次から次へと応援の連続となる。7回にはエールの交換という儀式がある。男子学生は自分の好きな女子学生の隣に座りたがる。女性の方もそれは同じだ。なぜかというと点が入ったとき応援歌の「紺碧の空」を歌うとき、
隣の人と一緒に肩を組んで応援するのがしきたりになっているからだ。慶応の方も全く同じで点が入ると「若き血」で肩を組む。ずっと昔、戦後すぐの頃から早慶戦をきっかけに仲良くなった男女のことを思うと、早慶戦こそは青春の賛歌だったのではなかろうか。東大に落ちてがっくりしていた学生も、この時初めて早稲田、慶応に入って良かったと思いなおす人たちもいるそうだ。 (続く) 10/28
「私のアメリカ留学 事前準備編」(10) 留学直前の断り書き
ひとつ読者にお詫びしておかなければならないことがある。それは私がカメラを持って行かなかったということである。これは本当に大チョンボだ。せっかくの記念に写真をどんどん撮っておけば良かったと後悔している。まさか今頃になって、インターネットというこんな便利なものができて画像を簡単に組み込めるとは思っても見なかった。写真の趣味は特にあったわけではないが、カメラを操作することは問題なく出来たのであるから、今にしてみれば残念でならない。これからいずれ話すことになるサラやエリザベスの若き日の写真が一枚もないのだからまことに残念だ。それでもわずかに他人が撮ってくれた写真とわたしが向こうの新聞に載った写真があるから、その時が来たら載せてみよう。次はいよいよ飛行機でアメリカに飛ぶ場面にしよう。 (続く)11/4
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