私のアメリカ留学

At the Doors of Hicks Center, Kalamazoo College
With My Friend Dennis
「私のアメリカ留学 事前準備編」
以前は別のところにあったが一カ所にまとめた
早稲田大学の中がわかって、こちらの方がおもしろい。
「私のアメリカ留学 アメリカ到着編」(1) 羽田からシカゴへ
G.L.C.A.(五大湖大学連盟)のチャーター機で8月20日頃羽田空港から、ホノルルと、たぶんサンフランシスコでも給油をして、シカゴのオヘア空港に降りることになっていた。この頃は成田空港は存在しなかった。あの日羽田空港に父の車で連れて行ってもらった。父と握手して別れたことを覚えている。空港へ着いたとき、プロ野球の投手として数々の記録を作った金田がいて誰かと話をしていたのを覚えている。当時はまだ監督になる前の、国鉄から巨人へ移籍して投手をやり終えて、解説でもしていた頃ではなかったか。ずば抜けて背の高い男だから「あっ金田がいる」と父とうなずきあった。夏の真っ最中でも、今のように空港に人が一杯いることはなく、どちらかというと静かで閑散としていたように記憶している。
旅客機はたしか100人乗りぐらいの大きさの中型機であった。風が吹くと揺れるので、初めて空の旅をするには余りいい気分ではなかった。高度がどんどん上がったとき、耳が痛くなってきた。他の人たちを見ていたら大したことはなさそうだったが、自分だけ嫌に痛かったのを覚えている。東に向かって飛んでいたのであるから日が暮れるのが当然なのだが、ホノルルに着いたときはまだ明るかった。と言うことは我々は朝出発したのだ。ホノルルで降りて3時間ぐらい待たされた。飛行機の戸が開いて外へ出た瞬間、ムッと暑い空気に触れたのを覚えている。
この飛行機はチャーター機で、中西部へ留学する人のほとんどが乗っていたし、またアメリカから早稲田へ留学して、これから帰る人たちも乗っていた。余り大きな飛行機ではなかったからサンフランシスコでも給油をしたのであろうか、こちらの方は全然覚えていないが多分そうだったようだ。ここでもまた数時間待ったのだろう。そうでないと目的地のシカゴのオヘア空港に着いたのは翌日の昼間だったから時間が合わなくなる。
オヘア空港に着いたとき、驚いたのはその空港の規模だった。こんなに大きな空港をよく作ったものだと思うぐらい大きかった。ここでいよいよみんなと別れてそれぞれの道を行くことになった。
話は少し戻るが、アメリカへ行く少し前に、たまたまうちの近所の人の知り合いの医者の友人がカラマズーのボルジス・ホスピタルという一番大きな病院で心臓内科の医師をしていることがわかった。行く前にその医者の家を訪問して挨拶したら、ずいぶん喜んでくれて紹介の手紙を書いてくれたので、カラマズーへ着いたら電話すればこの河村先生という医者が迎えに来てくれることになっていた。
特に日を決めておいたわけではなかったので少しぶらぶらしてからカラマズーに行ってもいいなと思っていた。そこで私はもと横浜ホームミーティングに属していた坂口さんという1級上の男性と一緒にその日はYMCAホテルに泊まることにした。その当時はYMCAホテルが安くて泊まりやすい所だった。ダウンタウンの方のではなく、シカゴの北の郊外のホテルに泊まった記憶がある。ホテルのフロントで何にも知らない私たちが「ダブルを一つ」と言ったら受付の女の人たちがクスクス笑いだした。それは一寸まずいことなのだ。"Are you sure?"と聞かれたので、ダブルではなくツインと言うべきだったのだとやっと気がついた。それでツインルームを取ってその日は疲れた体をそこへ投げ出した。 (続く) 11/10
「私のアメリカ留学 アメリカ到着編」(2) シカゴ見物
翌日、ミネソタのマカリスター大学へ行く坂口氏と別れて、いよいよ私一人の単独行動となった。夏の陽光を浴びたシカゴの郊外はまことに新鮮であった。道行く人々はカラフルで、街路はゆったりとしており日本の光景とは全く違う。この後どうしたかというと、シカゴの北の郊外に出たついでに、早稲田にいた頃親しくなっていて国際部にいた小柄で、人のいい男で名前が定かではないが、たぶんボブという名の学生の電話番号を聞いてあったので、かけてみた。すると運良く彼が家にいて、シカゴの郊外のさらに離れたスコーキーという所にある彼の家に一晩泊めてもらったのだと思う。車で迎えに来てくれてどこか遠くの方へ行った記憶がある。
次の日ボブと別れて、荷物はカートにまとめて手で引っ張りながら、ダウンタウンを見物した。シアーズ・タワーはそのころ既に出来ていた。確かに展望は良かったような気がするが、何を見ていたのか記憶にない。ミシガン湖でも見たのだろうか?それよりも興味があったのはダウンタウンのWabash Streetにある、シカゴで一番大きいとされるKrog's & Brentano's という名の書店であった。大体私は無粋な方で、本屋と文房具屋と、あとはレコード屋ぐらいしか興味がない。大きな洋書店は当時の日本では丸善や紀伊国屋ぐらいだったから、シカゴ見物の中ではそこへ行くのが一番楽しみであった。しかしここは町中の書店で、学術書は控えめで、品揃えはやや一般的だったように思った。あとで触れることになる、ミシガン大学のあるアンナーバーのBordersの方が、よほど優れていた。
この書店を出てから、シカゴの南、同じWabash Street沿いにYMCAホテルがあることが地図を見て分かっていた。もう少しシカゴ見物をするため今日はダウンタウンの方のホテルで泊まろうかと、午後1時頃だったろうかそこへ向かって歩いていった。暑い夏の昼下がりだった。ところがこの通りを歩いているうちに、自分が段々ゲットーのようなところを通っているのだということに気がついた。あの当時独特の風俗として町中で黒人たちはよくラジカセを持ちながら大きな音でロックを鳴らしていた。ちょうどその頃は黒人が暴動を起こして、殺人事件が頻発しており、治安が悪くなっていた。実際、日本にいた頃、早稲田で私が英語を習っていたレンドン教授が私がアメリカに行くというので話してくれたが、彼の親戚もシカゴ大学の構内で殺されてしまったということであった。当時はタクシーに乗るなどという頭が働かなかったため、この危険地帯を旅行者の風体で歩いていた。ずっと向こうにYMCAホテルが見えていたが、歩道の脇は用のない黒人たちが、じろじろと時折通る旅行者を眺めていて、隙あらばたかりつこうという雰囲気だったので気分が悪くなってきた。私は来るなら来いと、腹式呼吸で気合いを入れ直して、万一の場合は多少心得のある空手で何とか追い散らしてやろうと覚悟を決めて、内心こわごわ、見かけは堂々と歩いていた。ホテルのすぐそばまで行ってから、やっぱりこんな所に泊まっていても落ち着かないから止めようと気が変わった。まだその日のカラマズーを経由する長距離バスに間に合う時間だったので、もう面倒だからバスに乗ってカラマズーへ行こうとダウンタウンのグレイハウンド・バスステーションへ向かうことにした。 (続く) 11/16
「私のアメリカ留学 アメリカ到着編」(3) カラマズーへ
地図を頼りにグレイハウンドのバスステーションへ行った。シカゴのアムトラック(大陸横断鉄道)の駅からもそう離れていなかったのではなかろうか。バスステーションはシカゴから様々な方面へ出る沢山の乗り場に分かれていた。シカゴからナイルズを通りカラマズーを経由してデトロイト方面へ向かうバスの乗り場を探し当てた。バスが出発したのは午後何時だったのかは覚えていない。カラマズーへ着いたのは午後の6時ぐらいだったようだから、2時頃だったのではないだろうか。大柄でまじめそうな、まだ若い黒人の運転手が白い歯を出して笑顔で私の荷物をバスの外側下にある荷物入れに入れてくれたのを覚えている。これからいよいよ目的地のカラマズーへ行こうとした、あの夏の日の青空と陽光は今でも忘れられない。バスは滑るように高速へ入り、いくつかの停車場を経過した。あるところへ来たとき運転手が、時計を中西部の標準時から東海岸の標準時へ切り替えて一時間遅らせるようにと指示をした。出発してから一時間半ぐらいのところでいったん休憩となった。そこで乗客たちはバスを降りた。そこにはハンバーグなどをやっている安っぽい(sleazy)レストランがあって、そこで乗客は用を足したり、スナックを買ったりした。
ここで私はまた失敗をする。腹が減ってきたのでハンバーグでも食べようかと並んで待っていた。カウンターで注文を受けているチカノ(メキシコ系原住民)のような女性を見ていたが余りハッピーではないような印象を受けた。およそこのような仕事をしている人たちは心の中で白人に対して恨みを抱いていることが多い。数年後にシカゴ大学を訪れたときもゲットーのあたりを回る市内のバスに乗って行ったのであるが、その時の黒人の女性の運転手も全く投げやりであった。さてこの安レストランで並んでいる私の番が来るとカウンターにいたその女性がややぶっきらぼうな、よく分からない英語でトマトやタマネギ、ケチャップ、ピクルスなどを入れるのかどうか、入れるとしたら何にするか、それとも何にも入れなくてもいいのかを聞いてきたのだ。一番最後にプレインと言ったので、何だかよく分からないから私もついプレインと言ったら、その女性はいぶかしそうな顔をしてハンバーグ用のサンドに何にもなしのハンバーグだけを夾んで、私に突きだしたのである。日本語が通じるならば「一寸待った、これは困るから全部入れてくれ」と言うところなのであるが、ぽんとよこされて、はいお次と言った調子の勢いに飲まれて、後ろも繋がっていたので、そのまま押し出されてしまった。いやこのプレインハンバーグのまずいの何の、アメリカ人はこんなまずいものを食べているのかと嘆息し、途中で食べるのを止め、ゴミにして捨ててしまった。これもまた忘れられない体験であった。
そうこうするうちにバスはだんだんとカラマズーに近づいてきた。大きな町に寄るたびにバスはハイウェイからそれてその町のグレイハウンドの駅へと向かっていった。夕方6時ぐらいになって、とうとうバスはハイウェイをそれてゆったりとした速度で滑るようにカラマズーのメインストリートであるウエストミシガンアヴェニューへと入っていったのである。道路の区切りの島々にきれいな芝生が植え込まれた、全体として広々としたアスファルトの道路をバスは一定の速度を保ちながら、ゆったりと進んでいた。それは不思議に感動的な体験でもあった。これからまだ私の知らない、いろいろなことが始まるのだなあと漠然とした期待に胸を膨らませた。夕方とは言っても、ミシガンの夏は明るかった。やがてバスはダウンタウンのグレイハウンド・バスステーションに到着した。 (続く) 11/24
「私のアメリカ留学 アメリカ到着編」(4) カラマズー到着
ウエストミシガンアヴェニューに沿ったバスステーションはダウンタウンの中心より西側にあった。2,3年後にこの駅はダウンタウンの北側のアムトラックの駅のそばに移された。その方が便利だからであろう。バスを降りて荷物を出してから電話を探し、早速日本から紹介してもらったボルジス・ホスピタルの心臓内科の医師、河村先生の自宅に電話をしたら、運良くご本人が出て、迎えに行くと言うことになった。仕度をして30分ぐらいしたら着くだろうということだったのでそれまで隣のミシガンニューズエージェンシー(Michigan News Agency)に入ってみた。そこは新聞雑誌、ペーパーバック、シガレットやシガー、パイプなどのたばこ類も置いてあり、紙の匂いと混じって、まだ慣れない日本人から見ると独特の香りが漂っていた。
しばらくしてから、また駅へ戻って待っていると、やがて河村先生が姿を現した。背は高めで、眼鏡をかけ、頭がおにぎり型でとんがった感じだった印象がある。慈恵医大を出たというこの先生の車に乗せてもらってカラマズーのダウンタウンから目当てのカラマズーカレッジへ向かった。夕方6時半を回っていたはずなのに周囲は十分に明るかった。ミシガンの夏は8時頃にならないと暗くならない。ウエストミシガンアヴェニューを車で2分も行くとカラマズーカレッジのあるアカデミーストリートへさしかかる。大通りから右折して道幅が8メートルほどのその通りへはいるとすぐにアムトラックの線路を跨ぐことになったが、踏切がない。汽笛を鳴らして合図することになっているのである。すぐになだらかな坂道となり、キャンパスの中へ入ると坂は急になった。この通りはそのままオープンでキャンパスには入れたのである。"Is this Kalamazoo College?"と河村先生は傍らを通っていた二人連れの学生に聞いた。アメリカ人特有のうなずき方をして
"Yes." と答えたシニアっぽい男子学生が眼鏡をかけていたのを覚えている。しかし、もうこの時間では大学本部(Administration Building)は閉まっていると言うことであった。
そこでまた大通りへ引き返し、河村先生は近くにあったダウンタウナー・モーテルへ私を案内した。取り敢えずここで一泊し、もう場所が分かったから明日自分で行ってくれと言うことになった。年輩の女性がカウンターにいて鍵をくれた。部屋の鍵をもらうところまで手伝ってくれて河村先生はお帰りになられた。何となくうらぶれた雰囲気のモーテルで一泊15ドルだったので、貧しい人々が車で来て泊まるところだった。その晩初めてのカラマズーの夜、疲れた体を休めた。たぶん早稲田教会の宣教師が書いてくれた紹介状が、ファーストバプテスト教会にも行っていたので明日はそこを経由して大学本部へ乗り込もうと決めていた。
12/1
「私のアメリカ留学 アメリカ到着編」(5) 寮に入る
ミシガンの朝は透き通った空気と青々とした空に恵まれている。夏の間暑いのは7月の3週間ほどで8月終わりは涼しくなってくる。もっとも最近はエルニーニョのいたずらで、かなり長い期間暑くなってきたようだが。モーテルから出てダウンタウンに向かう方角にハリーのレストラン(Holly's Restaurant) という看板が目に入った。その日初めていずれ行きつけになるレストランへ足を運んだ。中へ入ってみると入り口のそばが馬蹄形のカウンターで両脇に5人、真ん中に4人ぐらい座れるようになっていた。そのカウンターの中にウェイトレスがいて注文を受けている。カウンターの先には別の部屋があって四人掛けのブースが並んでいた。私はカウンターの空いているところに座り朝食のメニューを見ながら、典型的なアメリカンブレックファストを注文した。ゆで卵のオーバーイージー、ベーコン、トースト、それにコーヒーである。朝食を済ませてしばらくたってからファーストバプテスト教会へ向かった。執務をしていた牧師と会うことが出来た。彼は私の紹介状を見てから、彼の車でカラマズーカレッジへ行って寮のディレクターに私を紹介してくれることになった。この牧師さんと車に乗ると、一寸酒臭い匂いがした。彼はアルコールに弱い男だったのだ。カラマズーカレッジのあるアカデミーストリートへさしかかった頃、牧師が私に質問した。"What brought you here?"と聞いたのだ。この質問は典型的なアメリカ英語である。私が意味が飲み込めなかったことに気づいたので"Why did you come here?"と普通の訊き方になおしてくれたのを覚えている。それで私が早稲田で留学試験に思いがけなく受かって交換留学生としてここへ来たのだと返事をした。
いよいよカラマズーカレッジの本部へ来て、建物の中へ入った。日本の大学のようにどことなく薄汚れた感じが全然なく、非常にきれいに掃除がされており、清潔感にみなぎっていた。寮の居住関係のオフィスでジョン・カパチオというディレクターと会った。口ひげを蓄えて小柄だが、目端の利くタイプであった。牧師は彼に紹介した段階で引き上げた。早速彼の案内でホーベン・ホールという男子寮に行き、そこの比較的大きな部屋へ入れてもらえることになった。カラマズーカレッジは3学期のセメスターではなく、4学期のクオーターシステムだったので、夏学期の最後の時期であった。ただこの学期を受ける学生は比較的少ないので、寮には空き部屋が沢山あったのである。秋の学期が始まるまで私は取り敢えずその部屋で暮らすことになった。 12/12
「私のアメリカ留学 アメリカ到着編」(6) 学期が始まるまで
ホーベンホールに入って秋学期が始まるまで何日ぐらいあったのだろう。8月の終わりから9月の13日ぐらいまでブラブラしていた。ダウンタウンに出ていって映画を見た。勿論字幕はない。タイトルは「マンディンゴ」とかいったと思う。モハメッドアリとも戦ったケン・ノートンという黒人のヘビー級のボクサーが出ていて19世紀の南部のアメリカの話だった。アメリカにはよくオーク・ストリートという名前の通りがある。オークは樫という意味だから樫の木が街路樹になっているからだろうか。カラマズーのオークストリートは貧しい白人(Poor White)の一角だった。そのあたりのストアでサンドイッチなどを買っているうちに、その店のバイトの女性と知り合い、彼女のアパートへ遊びに行ったことがあった。寮に戻っても学期が始まるまでは正式な学生ではないのでサガという学校の中の食堂では食べられない。近所のバーガーキングやハリーのレストラン、もうひとつシュワルツのレストランというのがあった。そういうところで食事をし、いつも外食ではもったいないのでカラマズーの南にあるサウスウエストネッジ通り沿いにあるオリエンタルストアで米や味噌などを買い自炊もした覚えがある。
ある時ハリーのレストランでだんだん行きつけになるといつもいる男がいた。ある時カウンターで彼が私の隣りに座ったとき自然に会話が始まった。彼の名はビル・ディックといった。30代はじめぐらいで妙に私と波長があった。ビルは頭のいい男だが高卒で、仕事には恵まれず、レストランの掃除などを手がけていた。この男は私に親切にしてくれ、いつも頼むと車でどこへでも連れていってくれるようになった。ビルの家に行くとケーマートK-Martという日本のダイエイのようなスーパーに勤めている妻がいた。名前はリンダと言った。いつもメランコリックで悲しそうな顔をしていた。そう言えば、ビルの車に乗ってよくケーマートまでこの妻を迎えに行ったことがあった。私がふざけて自分の名前を光源氏の源氏がミドルネームだと言ったら、リンダは私のことをいつもゲンジと言うようになった。カラマズーカレッジの中は金持ちエリートの世界だが、私は図らずもカラマズーの典型的な貧しい白人の一家と仲良くなることが出来た。このあと、ビルの妻は娘を一人生むことになるのだった。
デビッド・スキャロウというハーバードでPh.Dをとった哲学の教授がいて、どういう訳か学期が始まる前に彼の家に招かれたことがあった。郊外のその家はまことに立派で、見るからに聡明な妻と、兄と妹の二人の優れた子供がいた。兄の方はこれからオーバリンカレッジへフレッシュマンで行くことになっていた。妹は高校生で後にカラマズーカレッジに入ることになっていた。 彼の妻は後にカラマズーの市会議員に立候補し当選した。 12/20
「私のアメリカ留学 アメリカ到着編」(7) 科目を取る
秋学期が始まった。通常の学生は3科目取るのだが、交換学生は2科目取るだけでよかった。私は英語を書くためのクラスで説明的散文(Expository Prose)というのを取った。ともかく英文を書く技術を上げなければということで取った。講師はDr.Harisという人で穏和でやや太り気味のトルコ系の顔立ちの人だった。毎週作文を提出することになっていたと思う。勿論アメリカ人の学生のようには書くことは出来ないので、出来る範囲で書いた。先生の気を引くには私流のユーモアやウィットに訴えるしかなかった。ある時Kカレッジ(カラマズーカレッジとは言わないで、皆Kカレッジという。)ととなりのWestern Michigan大学の学生を比較したアナロジー(類比)を書いてみた。ウエスタンの学生は平均的でたくましい雑草のようだったので、ウエスタンは野の雑草、Kカレッジの学生は温室植物と対比的に描写したらドクター・ハリスはいたく喜んで、Oh, I like this analogy!と言ってくれた。
もうひとつのクラスはドクター・スタート(Dr. Start)の一般哲学のクラスだった。内容はよくは覚えていない。哲学のペーパーを書くのは慣れないうちはかなり難しい作業だった。確か清水さんとか言う先輩の日本人のシニア女学生がかってスタートのクラスを取って、百科事典にあるのを丸写ししてAをもらった、などと悪いことを教えてくれたので、その話を信じて私も実はそのようなことを一つのペーパーでどうしようもなくなってやってしまったら、すっかりスタート博士から信用を失ってしまった。勿論その事以外では自分である程度書いたから私の哲学に対するアプローチは評価してもらったと思う。基本的にはスタート先生は私に好感を持ってくれたので、それにも関わらずその科目はBをもらったと思った。
それぞれのクラスとも、人数は15人程度で、まことに贅沢にクラスを運営している。ほとんどのクラスはセミナーのクラスのようなものだった。教室に使用している建物も採光がよく、教室の外の風景もまた芝生がきれいにそろった庭が見えて、勉学には最適の雰囲気だった。が悲しいかな、私は講師のしゃべっていることが分かったり分からなかったりで、これがまたストレスになった。
12/27
「私のアメリカ留学 アメリカ到着編」(8) ルートビアとバニラ
一寸飲み物の話でもしよう。アメリカ旅行に行って、私と同じようなことに気が付いた人たちはいるだろう。なぜこんなに美味しいものが日本では売っていないのかと。それは炭酸飲料のルートビアのことだ。ルートビアはなぜか日本では正式に発売されていない。もっとも当時のルートビアはだいぶ甘ったるかったし、今でもそうかも知れない。にもかかわらずこの炭酸飲料は私にとってはとても美味しかったのである。アメリカに行く前一度だけ飲んだことがある。それはある時米軍の兵隊と知り合いになって立川基地に遊びに行く機会があったとき、基地内の映画館で飲んだのだ。字幕なしの西部劇を見ながら飲んだのだが、一体このうまさは何なのだろうかと思ってしまった。コーラや、ドクターペッパーとも違う、ウインターグリーン・フレーバーの独特の味だ。カラマズーへ行って、この炭酸飲料に再会してから、しばらくは病みつきになった。この飲み物は実はコーラより歴史が古く、カラメルを使っているのでこげ茶色になっているがサルサパリラというアメリカ産の緑の果物が原料らしい。
アイスクリームの失敗談がある。今は日本でもお馴染みになっているが31アイスクリームと言うチェーンストアがカラマズーにもある。当時の日本ではお目にかかれないいろいろなフレーバーのアイスクリームを楽しむこともできた。最近はアイスクリームを食べないので忘れてしまったが、青いペパーミントチョコレートなどはその頃は珍しくて美味しく感じられた。バニラを頼むとき、ただバニラなどと言っても絶対に通じない。ヴァニーレァと言って、ニーにアクセントを置き、最後の子音もRではなくLをしっかりさせないと通じないだろう。私も初めてバニラを頼むとき、ただバニラと言ったら「お前、この忙しいのに何言ってるんだ、」と言った調子で、金髪の姉ちゃんににらまれてしまった。そこで私も必死で周りの人たちの発音に合わせてVanillaと発音し直したのだった。
1/1
アメリカ到着編 (9) ルームメイト
ホーベン・ホールの私の部屋へルームメイトが来た。グレッグ・チャンドラーと言って、数学を専攻する3年生だった。眼鏡をかけてやや老けた印象を与える男だったが、頭は数学については非常に切れる方だった。一寸した変わり者で、孤独性があったため私としてはかえって気楽な気分になれた。
ある時、彼は寝ぼけてネズミに咬まれた夢を見た。ギャッといってから大騒ぎをしたことがあった。私も起きて明かりを付けると、グレッグは「マウス、マウス」と言うのだった。私は毛布の静電気かなんかだろうといったが一向に聞かず、ネズミだと言い張った。この寮にネズミなどが入る可能性はほとんどなかったのであるが。
ところでこのとき既に寒くなりかけていた頃で、ミシガンの秋は急速に冬に向かっていく。10月終わりには雪がチラホラ降ってくる。セントラルヒーティングの寮の中はどこにいても暖かい。我々のいる部屋の中も常に一定の温度で心地よいのである。寝るときなどもグレッグは裸でパンツ一丁で毛布にくるまって寝るのが普通だった。それと共に思い出すのがベッディング(Bedding)のことである。彼らは起きたあとはシーツや毛布をきれいにベッドに敷き詰めておくのが習慣だ(Making
a Bed)。ところが日本では布団をたたむのが普通だからシーツも毛布も朝起きたら私はたたんでおいた。この習慣の違いを宇宙人のようなグレッグは指摘してくれなかったので、だいぶ長い間私は朝起きるとシーツやブランケットをたたんで片づけておいたのだった。
グレッグと私との会話はシンプルではあったが、仲はむしろいい方だったように記憶している。この学期の終わりでグレッグはまた私と一緒にいることをむしろ希望していたからでもある。
今思うと我々の居た部屋は地下であった。二階と三階がフレッシュマンの学生達のための部屋が並んでいた。一階だけはホールのようになっていて大きな吹き抜けのホールだった。ここにはゆったりしたソファがいくつか置かれていて、夜になって学生がそこで会話をしたり、気分転換にそこへ勉強道具を持ってきて勉強したりしていた。ここで私は当時新入生だったケント・ライトとトビーという学生と親しくなった。ケントは秀才型であったが、全然エリートぶらず、とてもいい男だった。ケントと私は気が合ったため彼はずいぶん親切にしてくれた。トビーはどちらかというと癖のある男だったが、これまたいい男だった。二人ともアメリカ人としては小柄であった。 1/8
アメリカ到着編 (10) 感謝祭
アメリカでは感謝祭(Thanks Giving)の木曜日はクリスマスと並んで大きな年中行事だ。11月の学期中だがこの第三週は学生達は水曜の午後から日曜まで自分の家に帰ってこの祭日を祝うことが出来る。スティーブ某くんというシニアの学生がいて、次の学期で私のルームメイトになりたいと希望してくれた。日本のことをいろいろ学びたいというのだった。スティーブくんは人相からいうと口が極端に小さいので男にしては細かく、不満も多いタイプだ。ともかくスティーブと、その仲間達とある程度親しくなり、Thanks Givingのとき、彼の家のあるデトロイト郊外へ行くことになった。カラマズーから彼の運転する車で、同様にデトロイト郊外に住む他の女子学生二人と共に総勢四人で、およそ4時間もかけてデトロイトに着いた。ダウンタウンは危険なところも多いが、彼らの住む郊外はまことに美しい高級住宅地で、街路樹の奧の芝生の中にきれいな家々が点在していた。
スティーブの父は事業に成功したロシア系ユダヤ人で、だいぶ年輩の人だった。母の方は私にとても気を使ってくれ、"Masa, you are a handsome young man. Did you know that?" などと言ってくれたことを覚えている。この感謝祭のディナーは家族で七面鳥を焼いて祝うのが通例だ。ほとんどの家が七面鳥を食べるのだからそんなに沢山あるのだろうかと思ってしまう。Thanks Givingの日か、あるいは日曜日か、生まれて初めてユダヤ教のシナゴーグへ連れていってもらった。スティーブは例によって細かく何かラバイ(ユダヤ教の先生)に質問をしていた。
私はその頃から自分が人生の曲がり角に来ていることを意識し出し、落ち込んだり、元に戻ったりしていると、スティーブは不満になり、君には二つの心がある、などと言って私を批判し困らせた。折角デトロイトまで招待されて行ってみたものの、この男と次の学期を一緒にするのは気苦労が多すぎると私の方は音を上げてしまい、スティーブにも了承してもらって、寮のディレクターのジョン・カパチオに願い出て、次の学期はシングル・ルームを希望した。 1/12
アメリカ到着編 (11) まずい食事
大学のヒックス・センターの中には大きなカフェテリアがある。中西部一帯の大学専門のチェーンレストランでサガ(Saga)という名前だった。朝、昼、夕と2時間位ずつ開いている。寮にいる学生をオンキャンパスの学生と言うが彼らがここへ食べに来る。近所に下宿して自炊している学生もいるし、中には家から通っている学生もいるが、これは少数派である。そういう連中はオフキャンパスの学生という。
1000人ぐらいのオンキャンパスの学生を一定の時間でこなしてしまうので、それなりのノウハウもあるのだろうが、食事自体は大味で耐えられないほどまずい。メインディッシュはハンバーグのようなものにチーズか何かをまぶしてあって、その脇にマッシュポテトを配して、グレイビーというソースをかけるかどうかを聞いたりする。ライスが付いている場合はカサカサのライスだ。ヒモカワうどんのようなヌードルも全然味がない。ステーキなどの時もあるがこれがまた大味だ。後から塩胡椒を自分でかけるようになってはいるものの食べ物に関してはアメリカというところは最高とは言い難い。ある時マイクという友人と一緒に食べていたら、彼が「ゲッまずい」と溜息混じりに「ここの食べ物は世界でもまずい方だろう」言ったことがあったから特にこのようなところはおいしくないのであろう。私の観察では日本では主食の米に塩気がないのに対して逆にパンには多少の塩気がある。この違いがあるためおかずの塩気を控えているので味が引き締まらないものと思われる。サラダやデザート類はサラダバーなどがあって勝手に取ることができる。私はここでコテージチーズが好きになった。
ここは一種の社交場で学生達はここでお互いに親しくなる。気の合う者同志が自然にふるい分けられて行くみたいだ。私もここでいろいろな人たちと知り合った。まず授業を一緒に取っている顔見知りの人たちがたまたま同じ時刻に出会うと気軽に四人掛けのテーブルあるいはもっと大きなテーブルに座っておしゃべりが始まる。それぞれが寮のルームメイトを引き連れていたりするので、そこで知り合う範囲が拡がると言った具合である。面白いことに或る一定度以上に知り合いが増えると、それからはやや保守的になってくる。余りたくさん知り合うのは面倒になってくるのだ。学生だけでなく大学本部に勤めている人たちもよく見かけたし、先生達でここで食べる場合もある。結構近所に教授達の家が点在しているので、ここで食べない人たちは家で食事を済ませているのだろう。 1/17
アメリカ到着編 (12) マリファナ
ダイアン・スウスという学生がいて文学の専攻だった。詩などもよく書いていたようだが、童顔にもかかわらず眼のあたりのメイクはきつい方だった。よく私に声をかけてくれて、彼女の部屋へ行くとヒッピー風の学生がたむろしていた。週末になるとそういうところではマリファナを吸ってハイ(High)になるのが通常だ。70年代半ばのミシガンはマリファナに対する風紀が緩く、おそらくほとんどの学生はその気になればマリファナを吸っていることが出来た。知り合いの心理学の教授などに聞くと、みんなやっていると言う話だった。尤もそういったことを良しとしない学生もなかにはいたから、半々ぐらいだったのだろうか。
グループでマリファナを紙に巻いて吸う場合、一人で吸いっぱなしということはなく、車座になって次から次へと渡し合いながら、少しずつ吸っていくのが常道だ。ボングと言ってパイプのようなところへいったん葉っぱを詰めて火を付けてからブクブクと水を通して吸い込むガラス細工の器具もあった。Are you already getting High? などと尋ね合う。白人はHighになると目が充血してくるので吸っているか吸っていないかすぐ分かってしまう。東洋人には特にそのような現象は起こらない。ハイになっていると全体に気が緩むから、ケラケラと笑い出す傾向がある。車の運転などはしない方がいい。
マリファナを吸うと通常の意識では決して届かない不思議な経験が出来る。たとえば絵画を見ていると普段は目に付かないような詳細な部分の中へ入っていく。その中でまたイメージが膨らんでいく。そしてその絵画がより立体的に迫ってくるというようなことが起こる。音楽を聴いていても同様だ。作曲家の意図や演奏家の姿勢などが、通常では気が付かないところで生き生きと把握できる。意識の波長が違うため、芸術作品の味わい方がまるで変わってくるし、その世界へ入ると普段よりもはるかに奥行きがあるのである。期末の論文を書いているときなどもマリファナを吸いながら書いた部分と正気で書いた部分とでは出来が違っている。しかしこのような世界へは余り深入りしない方がいい。一つの経験として知っておく程度にとどめるべきである。今のアメリカがこういう規制がどの程度強いのか知らないが、とにかくあの頃のミシガンは比較的自由で、表向きは禁止されていたのかも知れないが、ディーラーでない限り、末端の消費者はほとんど処罰されなかったようだった。 1/28
アメリカ到着編 (13)
ギターのこと
まだカラマズーへ来たばかりの頃、名前は忘れたがノルウェーかどこか北欧系の顔立ちの若い男と知り合って、その男の紹介でカラマズーでは数少ないクラシックギターの職人と知り合った。ギターを作っているこの職人のところで、試しに弾いてみて、彼が使っているギターが一番いい音色だったのでそれを所望したら快く、しかも安く分けてくれたのである。300ドルぐらいだったろうか。思いがけなくギターが手に入ったおかげでこの後いろいろと楽しい思いをした。私はクラシックギターとフラメンコギターには相当な心得があったので後で触れることになるかも知れないが、学内でやるタレントショーなどに出ると必ず賞を取った。
ダイアン・スターナーというカラマズーの郊外のポルテージというところから車で通っている女子学生がいてクラシックギターがようやく弾ける程度で、もっと上達したがっていた。そこでダイアンの前で私が「禁じられた遊び」と「アルハンブラの想い出」などを弾いて見せたら、弟子になりたいと言いだした。週に1回、彼女のギター持参で私のところで習うことになった。このダイアンはやや面長で眉目秀麗、スッキリした鼻の形といい、若い頃のキャンディス・バーゲン以上の非の打ち所のない途方もない美人だった。 ところが美人を鼻にかけず、極めて素朴な心情の持ち主であった。このすてきな女性が私のところへ毎週通い始めたのだから、私もまんざらではなかった。ダイアンはよくWait,wait,...といったり、Explain
it.
とか言って、本気で上達しようとしており、その点で教え甲斐があった。クラシックギターもよく見てみるといろいろな奏法があり、ダイアンに対してはアルペジオとトレモロを特に入念に教えてやったように記憶している。何回か私のところへ通ってからお礼のしるしにとダイアンは自分で焼いた手作りのクッキーを持ってきてくれたことを覚えている。
週末になるとヒックスセンターのホールがディスコのようになってそこで学生が踊ったりする場所があったが、それとは別にフォークギターなどを弾き語りしてそこで学生達が聴くミニコンサートホールのようなところもあった。当時はフォーク系ではジェイムズ・テイラーなどが流行っていて、それの真似をしたりする学生のフォークシンガー達がいた。私も一時この人達の仲間になって、小椋圭作曲、布施明が唱ってその昔大いに流行った「シクラメンの香り」などをギターの弾き語りで歌い、日本語で歌ったにもかかわらず大変な喝采を浴びたことがあった。
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アメリカ到着編 (14) ドーベルマン
アメリカという国は日本の常識でいると思いがけないときに危険な目に遭うことがある。以前freeze(凍るが転じて動くなの意) と言う意味が分からなくて動いてしまいライフルで殺された日本人の留学生がいたが、私の場合も時に危ない目にあったことがある。
はじめての年の冬になる頃だった。ある晩のこと、私はホーベンホールの自分の部屋を抜け出して、カレッジから5分ほど離れたところにある、ウエストミシガン通り沿いのバーガーキングへ夜食を食べに行こうとした。寒い夜に一人でぼちぼちとアカデミーストリートを歩いているとき、周囲には誰もいなかった。後ろの方でひたひたと足音がした。人間の足音にしては軽々とした感じだった。するとまもなくその足音の主は私の前に躍り出て、「ウーッ」と敵意をむき出しにしながら今にも噛み付きそうな態度で私を睨み、きっかけを伺っていた。大型の黒いドーベルマンが見ず知らずの私にどう猛な顔で、軽いステップを踏み、身体を左右に振って今にも襲いかかろうかという動作をしている。その形相の凄まじさを見て恐れをなしてしまった。以前シカゴの南のゲットーを通っているときは黒人達に対して来るなら来いと腹式呼吸で気合いを入れていたが、このたびはとてもそんな元気が出ず、ひたすら神に祈りながらゆっくりと歩調を変えず何事もなかったようにして歩き切るのが精一杯だった。もし私が逃げるか、刃向かうかすればドーベルマンにとって悪い人間として映り、待ってましたとばかりに襲いかかり、私の方は尋常ならぬ怪我をしたと思われた。ドーベルマンも何の理由もなく私を襲うことは出来なかった。
後でこの経験を誰かに話したら、ドーベルマンで大怪我をした人がいたと言うことであった。その後このようなことは夜の一人歩きでもなかったからこれはよほど運の悪い出来事であったのだと思う。 3/27
アメリカ到着編 (15) スナックバー
カラマズー・カレッジには学生が夜たむろしておしゃべりなどができるスナックバーがあった。酒はおいてなく、バドワイザーぐらいだったろうか。珈琲やソフトドリンク、サンドウィッチ、ベーゲルなどが主な出し物であった。場所は中央の中庭から見て西側に当たるヒックスセンターの中にあった。20平米ぐらいある大きな一角で片側がブース席、残りはテーブル席になっていた。ブースというのは隣との間に仕切がついている四角いテーブル席のことだ。
スナックバーでは学生達がよもやま話をしたり、あるいは、ながら勉強をしたりして気分転換をする。私は生来落ち着いて机の前で静かに勉強するよりも、喫茶店のような場所でやる方が性にあっていた関係上よくここを利用した。
キーレン・ビーア(Kieren Beer)という名のアイリッシュの男がいて、彼はオフキャンパスのためか、よくここに出入りしていた。日本にキリンビールがあるのを知っていて、はじめてあったとき、自分の名前は日本にあるビールの商標と同じだと言っていた。キーレンはやや猫背で、歩くとき首を突き出していた。顔つきは典型的なアイルランド系であった。
ここでついでにアイルランドの話をしておこう。19世紀にアイルランドでジャガイモの飢饉があったとき、一挙に200万人以上のアイルランド人がアメリカへ移住した。現在ではアメリカの白人の三分の一はアイルランド人である。本国のアイルランドよりもアメリカの方が人口は多くなってしまった。アイルランドはカトリックなので、アメリカの教会に意外とカトリックが多いのもアイルランド人の人口の多さに負う。3月17日はセントパトリックデーと言ってアイルランドの記念日である。この日にはアイルランドの象徴である緑の三つ葉のクローバーを旗印にしてアイルランド系の人たちが集まって街頭行進をする。ハリソン・フォードの映画「逃亡者」の後半部で逃亡者
のリチャード・キンブルが街頭行進の中へ隠れていったのも、このセントパトリックデーの行進である。
さてキーレンの社交性のおかげで私はスナックバーで様々な学生を紹介してもらった。私のギターの弟子のダイアン・スターナーもそのひとりである。そのほかデーナ・ホルトン、エリザベス・スィドアなど個性豊かな人々と知り合いになることが出来た。デーナはクリスチャンで非常に強い信仰を持って、素直な女性だ。はじめてデーナの手相を見たとき、そのあまりの直観線の美しさにビックリした。直観線とは小指の下の感情線より下にある月丘に縦にでる線のことである。絶対者とのしっかりしたつながりを持っている証拠である。一方エリザベスの手相は生命線と頭脳線との始まりの部分が大きく開いており、大胆でじゃじゃ馬のような性格だ。スナックバーでは以前に書いたホーベンホールの友人ケントともよく会った。 5/20
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