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心の中にある聖杯の発見
 

  心の中にある聖杯を発見するために、 ちょっとだけ回り道をする。こんなことがなぜ聖杯の発見につながるのかと思うかも知れないが、心を外化するために誰でもが経験する心の運動の普遍的内容を単純な形でつかんでおくことが必要である。心の中を組織的に知るための一番簡単な方法としてまず目に見える態度の構造を理解することである。それが光に基づいていることに洞察が届くと一挙に聖杯発見に近づく。 そのための前提となる準備から始めよう。まずは生と光の法則についての一般的なとらえ方から入る。 それが済んだら態度の分析から衝動の分析そして光へと簡単に見ていく。 この考えに焦点が合うと、福音書の暗号体系の解読をして、そこに個人の頭の中に聖杯を発見することが出来る。

  そろそろ真理の図式の1を用意する。(この図式は「雑誌の記事」で「トリニティー2005Winter」の所からダウンロードできる、「光の範型」または「魔法の成功シート 」)


生と光の法則
 

   光が海水の有機物に働きかけて、原初の生命の創発が起こる。光のエネルギーは一番単純な、光をスペクトルへ分裂させて統一するという弾みで生成のエネルギーへと変換される。生成の原理というのは生命の誕生時に海水中の有機物に光のエネルギーが差し込んで、その光のエネルギーが生の中で弾みながらスペクトルの青(雄性)と赤(雌性)へ分裂し光への再統一を単純に繰り返して生を推進させ、そのまま何の変化もなくきているだけである。光の持つ普遍的性質上それ以上複雑化することはありえない(物理学の最小の法則、ライプニッツの最小時空の最大効果)。自然はまったく単純な光の分裂と統一を永遠に続けている。単純な構造のまま経験が含蓄されていく視点に入れば最小限の同一性を伴う生の自己外化が成立する。生は光のエネルギーを受けて、光をスペクトルへ分裂させ再び光へ戻って統一するという弾みで成長運動を繰り返す。もともと生命の誕生の瞬間は海水中の有機物に光のエネルギーが入って自律的な運動が始まったことによる。一番単純な、光をスペクトルへ分裂させて再統一するというその弾みで生命は進展してきた(最小の法則)。
  ところが人間など高等生物の霊魂に入ると表層的な意識が光の辺縁にくる。表層意識は一カ所しかないのに、雄性衝動(青)と雌性衝動(赤)という違った衝動が同じ場所へ来るので混乱するのである。その反対に深層意識が光の中心に当たる。したがって心の深層(図の下の部分)が光の中心で、そこからスペクトルへ分裂して表層意識(図の上の部分)へ展開し、また深層意識の光へと戻るという運動である。生は分裂と統一を繰り返しながら自己発展の成長運動をしており、この図を静止的なものでなく生の成長運動の分裂した瞬間としてみる。
  この運動でできる意識の空間を4象限のマトリックスで平面的に整理する。生の運動を4象限のスペクトルへの分裂と光への統一という身体感覚に基づいて、この基準から意識の全領域を見る訓練をする。階層化した次元別の意識の内容に当てはまる言葉のセットで精神を理解していくと心の中が外化され、整理されて自己コントロールがしやすくなる。

   心の中に存在する聖杯は真理の図式として聖杯は自分の頭の中に発見される。心の中の聖杯はまず光の範型という「真理の図式1」で準備をして、「真理の図式2」の福音書の暗号 体系を理解することで発見される。 聖杯の隠喩体系は心に発見される聖杯を自分の意識の中に発見することは難しくない。しかしちょうど英語が出来るようになるにはコツがいるように発見するにはちょっとしたコツがいる。
   聖杯を自分の意識の中に発見する仕方を考える。意識の中に聖杯を発見するには、自分の意識がまるっきり真っ暗闇では発見のしようがないから、心の中がどうなっているかのちょっとした構造的な理解が必要である。といっても難しいことを読者に要求するわけではない。 これから述べる、態度、衝動、光の連関をゆっくり凝視して心の中に図式が出来てくると聖杯発見に一挙に近づく。 生の運動が意識とつながって構造的に見えるようになるやり方である。目に見える態度が衝動と絡まってそれが心の奥で根本運動をしている光とスペクトルの分裂と統一と絡まっている様相を見通すと一番簡単に生成の究極的運動を自分の中で識別できるようになる。


光の範型のやさしい説明
 

   いよいよこれから聖杯と聖杯の中身を自分の心の中に発見する準備に入る。 聖杯を発見するための「真理の図式1」またの名を「光の範型」を理解することによって聖杯発見の準備に入る。
   まず宗教色のない分裂と統一の生の運動の図式(真理の図式1)から検討する。そして二つの態度の表象化を通して真理に焦点を結ぶと全体がわかるようになる
 

  生の真理をつかむのは意外と簡単である。この図を使って以下のようにすればよい。真理の図式1は心と身体との間の暗黙の対応を基準にして作られている。まず上下左右の関係を身体感覚に即して設定する。上下の軸は、上が不安定で停滞的、下が安定で流動的。左右の軸はほとんどの人が右利きであることから、右が能動、左が受動に決まる。

  真理の図式1を見るとき下から上に生命が光によって分裂してスペクトルに分かれ、また光に戻るという想定をする。分裂と統一の不可逆的循環運動をしている生のパルスが分裂した瞬間を捉えたものである。またこの円形の図を単なる平面とは見ないで、意識の表面から奧に向かって深さがあるように見る。目に見える態度の識別から衝動の識別へさらにその原因の光へと奥行きを与えて見ることで円が円柱になる。

  心の動きを認知するための2つの例に注目する。1.高ぶるから謙遜へ 2.気のゆるみから引き締まりへ。例1.私たちはうっかりすると、生意気になりやすいが、高ぶると後悔して謙遜になる。(生意気な人に自尊心を傷つけられると苦しくなり、当初は許せなくなるが、しばらくして許すとラクになる。)例2.疲れてくると仕事をさぼったりして気が緩んでだらしなくなるが、後悔して気を引き締める。(テレビを見過ぎたり、インターネットをやり過ぎたりなどもこのたぐい。)心の中の運動の変化でこの二通りに特に注目し、内容の違いを区別する。例1.は光からスペクトルにいったん分裂した「青」から統一の方向の「黄色」への動き。例2.は「赤」から「緑」への動きである。心を青と赤へ拡張していく「行く運動」と黄色と緑へ収縮して調整し直す「戻る運動」がある。そういう短期間のパルス(律動)で行ったり戻ったりの弾みをつけて我々の心は成長運動を続けていく。この関係の全体を凝視して焦点が合うと分かりやすくなる。

  高ぶったり生意気になったりするのは生を拡張する雄性衝動に原因があり、気が緩んで楽を求めるのは雌性衝動に原因がある。後悔して謙遜になったり、また義務を果たそうという気になるのは中心へ戻ろうとする道徳衝動に原因がある。生の運動が光の分裂と統一の弾みに基づいていることにこの図を通して気がつくことが必要である。生は分裂に向かうと、表層意識へ来る。それは停止(悪)の方へ向かい、そのまま行きすぎると生が停止して破壊されてしまうから、どこかで反転して統一の方向の深層意識の流動(善)の方へ向かう。分裂と統一には善悪の対立関係がある。生が自然に流動しながらどんどん進化していくことが善。停滞し、よどんで進化がなくなってしまうのが悪。成長運動は分裂で悪へ傾斜し、統一で善の流動体となる。

  生の律動(パルス)は光によって成り立っている。背後にあるその衝動の動きが人間の態度で表現される。分裂した衝動は青・赤・黄色・緑に分かれ、4つの領域にまたがり、スペクトルに分裂したり光に統一されたりの上下運動を繰り返す。この上下関係で流動が善で停止が悪という善悪の対立を示している。こういった全体の関係に焦点が合って掴めると生の真理が把握される。アプローチがよければ真理の把握は意外と簡単である。この視点を基準に様々な神話の暗号解読や哲学の理解も本格的に出来るようになる。


   態度・衝動・光の次元的相違をそのまま含みながら生の自己運動を全体的に捉える。円の中の往復運動に、 手前から奧へ、態度・衝動・光と深さを与えて円柱状に全体を捉える。それが 聖杯のコップ である。その中に生の流動体(善)を自覚的に発生させることが出来ると聖杯の中身は「聖なる生」としての「神の愛」が出現する。そのためには「真理の図式1」で焦点が合うようになったら、そもそも「生の流動体」=「神の愛」を成立させる心の原理あるいは心の論理形式にいったん全体を分割し、その理解の下に再統合するのでなければならない。

 

 

福音書の暗号体系

 

    そこでここから福音書の暗号体系の解読に入っていく。 手順としては、まずマタイとマルコの福音書の冒頭にある系図と予告を説明する。それらが聖杯の形成要因である。そして聖杯の中身である「神の愛のエネルギー」を自覚的に発生させるための必要条件である、心の構造が物語の構造によって組織的な比喩で対応していることを確認する。それによって、心の運動法則を理解して、自覚的に心を中心に持っていくことを覚える。これによって聖杯の中身を浄化し、「神の愛」が発生できるようにする。

 

  新約聖書のはじめは4つの福音書がある。それらは順にマタイ、マルコ。ルカ、ヨハネと並んでいる。はじめの二つの福音書は特徴がある。マタイには父子関係を中心とした系図が書いてあり、マルコには3人の人物が登場して、それぞれが予告をする。冒頭に書かれていることはこれから起こる出来事のあらましであると考えることが出来る。福音書は人間の心を救済して、神の国へはいることを意図しているから、その前提として我々は人間の心について知らなければならない。そのことに無知であると、自覚的に自らを変換して聖なるエネルギーを手に入れることは不可能だからである。そこで系図は心の空間についての定義、3つの予告は心の時間についての定義と見なすことにする。 前者は空間のコード、後者は時間のコードということになる。そうすることで我々は合理的に心という暗闇を明るく外化するきっかけをつかむことが出来るようになる。そしてこの系図こそが実は円柱状の聖なるコップを為し、その中に聖なるエネルギーが入ることが出来る、 聖杯である。その有様をこれから確認することになる。


 

空間のコード


   聖杯とはマタイの系図が作る円柱のことである。 なぜそうなるのであろうか?マタイの系図は心の枠組みを定義して、これから起こる出来事の全体を設定する。心の生成の運動はすべてその中で起こると言うことである。

  マタイの系図はアブラハムからはじまってイエス・キリストまで、14代ずつ、3つの区切りを入れる。この系図が人為的に作られていることは、実際のアブラハムからイエス・キリストまでの歴史的時間は実に1000年以上の誤差が出来ることで分かる。とても14×3=42代では収まらないからである。では一体どうしてこのような系図を作ったのであろうか?しかも父子関係の連鎖の中で、もしイエスが処女マリアから生まれた場合は、父ヨセフとイエスはここだけ血がつながっていないから系図としての意味がないとも言える。

   実はこの系図は福音書全体が心の暗号体系を形成し、その骨格構造を示すという視点に立つと全体の構造が簡単に分かる。14という数字は2で割ることが予想される。7が完全数だからである。そこで7×2によって構成されるものが3つあることを想定すると3次元の軸構造を思い浮かべることが出来る。(7×2)×3あるいは 14×14×14は3次元空間を作る。現代人はその3次元空間の形成によってすぐ球体を思い浮かべるかも知れないが、そこで出来上がるのは球ではなく円柱である。 なぜかというと、ここで行われているのは我々が外化する心の構造で、それは球体ではあまり意味を成さないからである。

   はじめにできる二つの14代が形成する円が重要である。ここで心の構造についての基本的な論理像が設定される。アブラハムから始まって14代目のダビデへと降りていくプロセスで、光のスペクトルの青・赤・黄色・緑が設定されるからである。
   全体は、 はじめの二つの14代が形成する円、アブラハムからダビデに向かって形成されている最初の14代が作る縦軸と、それに続く14代の横軸が形成する円に対して、意識の手前から意識の奧へ、最後の14代のバビロン補囚からイエス・キリストへ向かって奥行きを与えている円柱である。 この円柱こそ実は聖杯。
   この系図を読むコツ:14代×3は三次元空間、それに光のスペクトルが絡んだ複合極性の円柱を作ることを説明する。このはじめの14代は旧約聖書の創世記でイスラエル民族が初めて発生する部族の族長アブラハムから始まる。アブラハムの息子がイサクで、そのイサクの息子がヤコブ、という順に父子関係の連鎖がダビデ王まで続く。父子関係の連鎖の中で余分なものが出てきたら、男女別に男を右、女を左に置いてみる。それからそれぞれの象意をも加味してみる。これによってこの系図が光のスペクトルに基づいていることが分かる。そうすると男の兄弟たちを右に置くと、後述するガリラヤの町々(青)に対応する。女の方ははじめの7世代の第3世代に出てくるタマルは娼婦である赤を象徴 するから後述する快楽の町ソドムとゴモラに対応する。第8世代以降14代までが下半分に属し、意味が肯定的になる。そこでラハブは同じ娼婦でもエリコの町を攻略するのを手引きした勇敢な女であるから左へ置かず右の方へおく。なぜならば第3象限は単純な雄性の場所ではなく青(能動)と黄色(受動)が混じった緑という両性具有的な場所だからである。そして次に出るルツは謙遜と従順の象徴であるから左下へおく。縦軸の一番下に来るのがダビデである。一番下まで来ると、今度はどこへ行こうかという問題が生じる。この場合、ダビデがモノにしてしまったウリヤの妻が出てくるので左へ行く。左から右への横軸はまたダビデから始まる。その後は、兄弟も女たちの記述はない。横軸 にはスペクトルの要素を置く必要がないからである。横軸の最後にバビロンにとらわれて行くことが示唆される。補囚された場所は自意識の先端であるから縦軸のてっぺんへ移る。ここは表層意識の手前から深層意識の奧へ向かって、我々の自我が洞察によって真理を覗く場所でもある。ここから深層のイエス・キリストまでの14代となる 。

   

 

時間のコード

 

   第2福音書の冒頭には3人の3つの予告がある。これが何を意味しているかは明瞭である。これらは3つの時間帯に分けられている。福音書には時が満ちるということが重視されている。人間の精神が発達するにつれて3つの段階で予告とその予告の成就が行われる。それぞれの予告とその成就を一つの時間帯と見て、第1と第2の時間帯については次々と予告が成就する。第3の時間帯、つまりイエス・キリストが来て神の国が近づいたという最後の予告のみは成就しない。それは完全には成就しないものとして我々の頭の中で徐々に近づいてくる。

  聖杯になぞらえて言うならば、 予告とその成就は、杯と杯の中身を形成するプロセスを意味する。

  人間の精神が発達するということは、人間が自分についての理解が行き届いていくプロセスでもある。はじめは全く自分について分かっていない状態だとすると、自分の心の運動が形成する内容についての極性が分かっていないことになる。自らについての正しい知識を得るということは、自らについての像を持つことになる。その像は構造的に極性を持つ。その基本的極構造が形成されると自己の像が出来る。時間の経過によって自己自身を理解するとは、自己の像を形成する極関係が発達することを意味するのである。

  そこで第1の時間帯は旧約の預言者がヨハネが来るという予告をする時代で、この時代はモーセの十戒に依って示されるように、殺すな、盗むな、姦淫するな・・・などとただ単純な命令があり、自分自身の極が存在しない、無極の時代である。

  第2の時間帯は洗礼者ヨハネが登場する。ヨハネが授ける洗礼は、人間のエゴを水の中へ鎮める動作であるから、上下の極性が出来る。ここで初めて自分が自分を振り返るとき、単一の極性が存在し、その極性の下の方へ自分を導けばいいことを理解する。しかしこの時代は自己はまだ洞察力が浅いため、しばしば自分自身に裏切られて、エゴの力に振り回される。それが洗礼者ヨハネが世の力であるヘロデによって首をはねられることの意味である。

   第3の時間帯になって初めてイエスが登場する。このイエスの作る極性は4象限の十字になった軸に光のスペクトルが絡み合った複雑な極性である。これこそが後述するようにマタイの系図と物語の構造、そして十字架のキリストのそれぞれ異なる3つの事柄が同じ空間像を指し示している、複合極性の図像である。
時間のコードをまとめると以下のようになる。
無極性 旧約の預言者 →  単一極性 洗礼者ヨハネ →  複合極性 イエス・キリスト
マルコの冒頭 時間のコード、つまり 福音書が規定する精神の発達過程の時間は三つの時間帯に別れている。 第1の時間帯 無極から上下の単一極性が形成されるまで 旧約の預言者からヨハネまで。 第2の時間帯 単一の有極からスペクトルを含む複合極性が形成されるまで ヨハネからイエスまで。 第3の時間帯 複合極性から光そのものへの接近まで イエスから神の国の到来まで。
 

時間のコードのさらなる解題
 

  このような極性に基づいた時間帯を設定することで福音書に隠れている時間についての様々な表象が一気に分かるようになる。

三日三晩が三つの時間帯の区切りに対するもう一つの表象である。
そこで受難物語での三日目の朝が第3の時間帯へ入る決定的な時間の区切りになっている。福音書のイエスは主としてこの時間帯に来ている弟子に向けて宣教しているのである。受難物語で三日目の朝 、女たちがイエスの墓を見に行くが、墓の中は空になってイエスの死体が見あたらない。 第3の時間帯に入った精神は字義通りの福音書から神の暗号の隠喩体系の背後の自己元型をみるため、字義通りの福音書のイエスが逆に見えなくなる。墓の中の死体がなくなる。 この後は傍らにいた天使に「ガリラヤに行くとイエスに会える。」という言葉に促されて、弟子たちはガリラヤで復活したイエスに会う。実は、福音書冒頭のガリラヤ湖畔を歩いているイエスを発見する弟子たちは、三日目の朝、つまり第3の時間帯の入り口に入った精神のことを意味しているのである。 マタイやマルコの巻頭近くで湖のそばを歩いているイエスと出会う弟子たちは、字義通りの福音書から離れた、死せる書物から生ける書物へと復活したイエス・キリストと会うことになるのである。 その後、様々な場面で三つの時間帯についての秘義が示される。邪悪で不義な時代についてのコメントは第1の時間帯について。ペテロの信仰告白は第3の時間帯について。 第3の時間帯に入っている弟子は第1の時間帯へ戻されることもある。ペテロが鶏が鳴く前3回私を知らないと言うであろうということをイエスに予言される。つまり 1回が1日を通過することを意味するので、一日目の朝、まだ何も分からない状態へ戻される。ここで精神は自覚もなく信仰のない状況に入る。

 

空間と時間のコードから物語と心の構造の一致へ  

 

  時間のコードは無極性から単一極性を通過して複合極性を形成していくプロセスを示す。そしてそのようにして出来る複合極性の構図がマタイの系図によって構成される円柱であること。その円柱の中にあるものは神の愛のエネルギーである。それは生成の純粋な運動でもある。しかしそれがどのような構造になっているかはまだ示されていない。いったん生を分解して構造化してから元の生のエネルギーへと統一することの出来る、生成の原理は比喩の体系が心の構造と一致関係にあることによって示される。そこで我々はこれから物語の構造と心の構造の一致を確認する。それは先ほど見た「光の範型」が示した態度変換の原理にサポートされて明瞭に浮き上がってくる。

 

 

物語の構造と心の構造の対応関係

 

   物語の構造と心の構造との一致性 自己元型の現実化を促す
「光の範型」という真理の図式を用いることでこの論理関係が容易に把握できるようになる。光の範型は 態度・衝動・光と順に奥行きのある生の律動を捉えた図式である。 さしあたり平面上に上下左右の4象限の軸構造を取り、そこへ光のスペクトルを配列したもので、それが態度・衝動・光の奥行きを持っている。いわば円柱状の真理についての図式モデルである。 これに合わせて、福音書の暗号体系を解読することになる。
  まず マタイ、マルコの空間と時間のコードを手始めに、物語の構造が心の構造と一致することを確認し、福音書の暗号体系によって個人の精神を外化することに成功させて、形而上学に目覚め、愛に目覚めることで世界の閉塞をブレークスルーして、新しい世界の形成に役立てる。 向こうから復活のキリストが来るということは、こちらがプラトンの洞窟の入り口へと近づいていくことである。これまではそのようなことは不可能とされてきたが、「光の範型」の図式によって簡単にできるようになる。

  ( 4象限×光のスペクトル)+奥行き = 円柱(or 聖杯) となる。
上下の特性  善悪の対立関係 ←→  流動と停止 ←→  自由と束縛
同次元×多次元のMECE → 論理的に網羅した真理の像の成立
コップ状の聖杯は真理の図式を示す
円柱の中に心の構造と 生成の運動を見る  復活のキリスト=神の愛

  杯の中にあるもの  生の流動体 自覚的に制御された生命エネルギー(聖霊) 

流動の極大化、能動と受動によるエネルギーの束縛からの自由化
杯の中にあるものを機能させるため、いったん上手に分解し、再合成する。→ 物語の構造 と キリストの血
以上のようなことに留意しながら物語りと心の対応関係を確認する

 

 

  ここでの要点は、 物語の構造つまり物語を構成する基本的要素、 人物・背景・筋の組み合わせが 心の構造である構成要素( 元型)・場・運動 を具体的に表象することで、見えない心の構造が見えるようになるということである。福音書はそのようなことをしているから凄いのである。ただ誰もこれまでそのような視点で捉えてこなかった。私の場合は徹底して歴史上のイエス・キリストを排除して、禅の公案を解くようにして福音書と対峙していたからこのような解明が可能となった。福音書は心を外化する組織的隠喩体系以外の何ものでもない。そのように心を組織的に外化することで、聖杯の中の愛のエネルギーをいったん分解して再合成することが出来るようになる。


   物語の構造とは物語を形成する三つのコンポーネントが心を形成する三つのコンポーネントと対応関係にあり、物語の構造が心の構造を模倣するということである。
   物語に登場する人物が精神(心)の元型的構成要素を形成し、物語の背景であるイスラエルの地理関係が精神の場を形成し、物語の筋が精神の生成の律動を形成する。つまり 物語の枠組みが精神の枠組みを模倣しているということである。
   より具体的には以下のようになる。
対応関係の解題。
人物 部分的構成要素として 律法学者・パリサイ人(青) 取税人・遊女(赤)  幼な子(黄色)
全体的  イエス・キリスト(心の全体) ヨハネ(全体における変換) 弟子たち(心の表層部分全体)
背景 エルサレム(ベツレヘム) 心の深層

    ガリラヤ ティルスとシドン 心の表層

 

  自分の心の中に心についての正しい構造的イメージを持つには、心の諸特性についての基本的構成要素とその場が分かっていないとうまくイメージ化ができない。自分の心に何らかの引っかかりがないと、目に見えない心の姿を外化することは出来ない。それを可能にするのが宗教のシンボルである。

  そこで物語が成立するには、3つのコンポーネントがある。それらは人物と背景と筋である。人物がいないと物語は成立しないし、その人物がいる場所がないと物語は成立しない。そして主人公が何らかの行為によって筋を進めないと物語は成立しない。

  人物によって心の特性とその特性が所在する場所が指定されていると、自分の心を知る上でとても便利である。律法学者・パリサイ人、取税人・遊女、幼な子はそれぞれ心の基本的特性、青、赤、黄色と、それがある場所を示している。それらによって円の中の心の特性と場所が確定する。真理の図式2のそれぞれの位置に配属される。次に人物の中でも大きな役割を持っている。弟子たち、洗礼者ヨハネ、イエス・キリストの3つは、円の全体の円柱から見てそれぞれ異なる切り口を示している。弟子たちは漁師であるから、湖の中から魚を釣り出すのが仕事である。これは表層意識のエゴが深層意識のセルフを引っ張り出すということで、弟子たちは円柱の表層部分にあたる。洗礼者ヨハネはエゴを水につけて引っ込ませるのが仕事だから、表層から深層への変換の象徴である。つまり円柱の中を上下する。イエス・キリストは深層にあって、復活の準備が出来ている精神にのみ現実化して表層へ上がってくる。つまり、上中下と区分すると、弟子たち・ヨハネ・キリストがそれぞれに当てはまる。

 

地理関係と精神の場の一致関係の規定
 

 

   ガリラヤとティルスとシドンの関係は マタイ11:21-22において、ティルスとシドンはソドムとゴモラの象意を与えられ、スペクトルにおける赤つまり快楽や本能の意味を付与され、複合極性の左上の特性と一致する。がリラヤの町々についても複合極性の右上の特性を付与される。

主人公の行為が筋を形成する
 

   ベツレヘムで生まれ ガリラヤで宣教し たまにティルスとシドンへ行き エルサレムで磔刑の死を遂げる また復活する それは本当はまた磔刑の死を遂げるというように生の律動の不可逆的循環になっている この生の律動が物語全体を統合している
   主人公の行為のもう一つの面は、教え、治癒、贖罪である。偽から真 醜から美 悪から善への生の超越論的転換 光が分裂から統一へと自律的に運動するときに分裂の契機で三つの要素が偽・醜・悪へと悪化するものを再び真・美・善へと転換する生の根源的運動である。教えは福音書全体を譬えとして、愛のエネルギーの発動は癒しとして、贖罪が自己義認として、物語の構造が精神の不可逆循環運動とその本質を表現している。

  こうして物語の構造は 心を形態化する上での最小限の論理形式を、洩れなくダブりなく(MECE)表象したもの。 心の本質構造と物語の構造が論理的対応関係を保持する。 それら論理的分析を再合成した生の融合的運動・目的論的運動体が聖杯の中にあるキリストの命である。 こう書くと難しく聞こえるが、福音書は心というのは一番単純な光の運動に基づいているのだということを分からせようとしているのである。

   そしてマタイ冒頭の三次元空間を持つ円柱によって規定されている「光の範型」の中でこの生の律動は行われている。我々の自覚としては コップ状の意識の手前から意識の奧を覗く様な形である。 それはまさしく聖なる杯を形成する。したがってこれが神の国の秘密として隠されてきた聖杯である。

 

聖杯の中の葡萄酒 キリストの購いの血
  

   聖杯の血がどのようなものであるかは次のように理解すると分かりやすい。私たちは、それぞれ 某年某月某日に母の胎内から生まれてきた。いったん生まれたからには生き延びるしかない。小学校、中学校、高校と、オール百点、オール5で完璧こなしてきた人はいない。不完全な世界で不完全な能力で苦しむ。まわりの人が皆いい人たちだったわけで もない。様々な出来事に直面して苦しんだ、その苦しみは実は清算されていない。心の奥は皆純粋だから、血を流して苦しんだ自分がいる。それが比喩で表現されたキリストの十字架である。 キリストの十字架が実際にあったかどうかはよりも、私の心の奥にそれに似たものがあるというkとを認知することが大切である。誰でもキリストの十字架のようなものを持っている。人間が生きているかぎり必然的に抱え込む苦悩の流血を担保にして罪の清算が出来るということ に気づくことなのである。何の根拠もなく自分を許すことは出来にくいが、そういったことを認知すれば許すことが出来るということが大事なのである。ここでは人間の生について合理的に捉えられている。キリストの十字架は 実は自分自身の中にある。聖杯とは自分を外化するときに出来る心の図式の枠組みである。「光の範型」という心の図式がありこの一番奥に十字架のキリスト像がある。そしてそれは不完全性に苦しみもだえる、意識の奧の純粋な自己でもある。キリストの十字架のようなものの認知が神との取引を可能にし、罪の許しが与えられる。十字架のキリストの認知は罪が許されるための契機である
   聖杯をこのように内なる自己を認知する容器ととらえると、それは真理の図式を形成する円柱状の枠組みでもあり、そこへキリストの贖罪の血を入れる容器でもある。
聖杯伝説が意図した聖杯は、真理を発見し同時に罪が許されるために王が癒される、そのような聖杯である。
   聖杯は真理の象徴であり、同時にキリストの罪のあがないの血が入った聖杯である。 それは二つとも自分自身の心の中に発見される。 聖杯は真理の杯であり、その杯の中には自ら流した聖なる血が常に入っているのである。人間同士が喧嘩をしたときも、流血を見て止めることが多い。やりすぎて悪かったと反省する契機になる。そこでは血は許しの象徴である。だから聖杯の中にある自らの苦悩の結果の流血をイメージすることによって、自らの中にある倒錯した良心の責めに手を引かせるのである。その意味でも購いの血のドクトリンは人間の生について合理的に捉えられている。それは真理の把握でイエス・キリストの出現を促し、同時に自らの苦悩の購いの血によって、自らの罪を許していく、心の自覚の象徴である。

 

 

聖杯探求は心の正常化の探求

 

  およそ心のひずみというものは自意識偏向が起こっていて自立的な生の律動が戻りきっていないため機能がわるくなっている状態である。これを生の法則を自覚することによって態度変換のよい方向を理解し、戻ることに対する抵抗をなくし、自分が自分に説得されるようにする。自律的に戻るように導いて自意識偏向によって機能が悪くなっている心が良く機能するように変換していくことである。
  聖杯に興味を持ち、聖杯探求によって心の中に愛が満ちあふれるようにするには、生の力が何らかの精神的外傷によってひずんでいたのを元通りに戻すことである。心の中の聖杯であるマタイの円柱を把握してその構造を理解し、その中にある生命エネルギーを自覚的に下の方へ制御することで「神の愛のエネルギー」へと変換していくことが出来る。福音書の暗号体系はそのようなことを教えている。「光の範型」の真理の図式はその補助として、そのような暗号体系が隠れていることを顕わにするのを助けているのである。そしてそれは難しいことではなく、心が光によって分裂と統一を繰り返し、高ぶるから謙遜へ、緩むから引き締まりへの態度変換に自ら参与することで徐々に達成されていく。
  人間は自らが発生する生成の運動によって自意識の方へ傾斜するズレが生じる。ズレが生じると生命力が自由に流れず、エネルギーが希薄になるから疲れるのである。戻れる方向を覚知することで、ズレを矯正することが出来る。ズレがあるままだと心のバランスが悪く不自由になる。ひねくれて素直に謝れなかったり、与えられた責任を引き受ける気力が弱くなったりする。ズレが取れるとエネルギーの流れがよくなり、喜んで義務を果たしつつ、自由になっていく。それと同時に感謝して神(善)の意志に共鳴するようにすると、ますます自由になる。聖杯のありかを知り、聖杯の中身を育て、神の愛が十分に心に流れるようにする。それが聖杯探求と、聖杯の守護者になることの本当の意味である。物事の背後に隠れた生の論理を神話を通して探り当てて行く作業、それが聖杯の探索である。聖杯を見つけるとは、自由な世界へ入っていくことを意味しているのである。


   分裂のエネルギーよりも統一のエネルギーを使いこなすようになるということ。慣れていないことをするとき、試行錯誤で力むことになるが慣れてくると力を入れなくなる。ちょうど自転車や車の運転がそうである。幼児が歩行を始めるときも最初はふらふらしているが、いったんしっかりと身体図式が形成されると、力むことなく安定して歩行が出来るようになる。何事にも上達するということは力みが取れて、かえって必要なところに瞬発力が集中できるようになる。 老子にも「戻るのが道の働きである。」とあるように力が抜けて力まなくなると自由になる。この反対に泳げない人は水が怖いため、水に反抗して堅くなり、力むため自ら溺れてしまう。また泳ぐことが難しいことだと思っている。態度変換の原理を理解することで、行く力ではなく戻る働きに乗せて、光を光らせる統合エネルギーを理解し、自覚的に統合のエネルギーを使いこなせるようになること、それが聖杯の守護者となることである。

 

  聖杯を見つけるとは、元々存在する自分の心の中の単純な分裂と統一の光の法則に目覚めることである。そしてその法則に則して、自然な生の流れが発揮できるように自分を整えてあげることなのである。混沌としていた自分の心の中に生命衝動についての秩序が見出され、同時に道徳的秩序が見出されていくこと。それによって自己コントロールがうまくなること。そういうことが聖杯の発見である。

 

  また福音書の暗号体系にしても実は難しいものでも何でもなく、心の本来の構造に即した譬えを媒介にして、いずれ時が来ると、私たちが自分自身の心を見ることができるように作られているのである。私たちがその法則に従うことで、自然本来の生き生きした生命力を回復するため、あるいは何事にも上達していくための、生についての合理的な導き手になっている。一部のクリスチャンは信じれば永遠の命がもらえるなどと言っているが、それは盲目的な信仰で、字義通りではなく、このようにして合理的かつ論理的に永遠とつながることなのである。

 


 

結論

 

こうして聖杯の中には能動的視点からは「神の愛のエネルギー」が存在し、それは自覚的に生成することの出来るものである。そして受動的視点からは「贖罪の血」が流れており、それは自分自身の贖罪の血でもある。 それによって受動的に足かせをはずして、生の流れをよくしていくことである。このような聖杯とその中身を発見することによって人間は「神の愛のエネルギー」と一致していく道が開かれていく。 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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