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心の中にある聖杯の発見 心の中にある聖杯を発見するために、 ちょっとだけ回り道をする。こんなことがなぜ聖杯の発見につながるのかと思うかも知れないが、心を外化するために誰でもが経験する心の運動の普遍的内容を単純な形でつかんでおくことが必要である。心の中を組織的に知るための一番簡単な方法としてまず目に見える態度の構造を理解することである。それが光に基づいていることに洞察が届くと一挙に聖杯発見に近づく。 そのための前提となる準備から始めよう。まずは生と光の法則についての一般的なとらえ方から入る。 それが済んだら態度の分析から衝動の分析そして光へと簡単に見ていく。 この考えに焦点が合うと、福音書の暗号体系の解読をして、そこに個人の頭の中に聖杯を発見することが出来る。 そろそろ真理の図式の1を用意する。(この図式は「雑誌の記事」で「トリニティー2005Winter」の所からダウンロードできる、「光の範型」または「魔法の成功シート
」)
光が海水の有機物に働きかけて、原初の生命の創発が起こる。光のエネルギーは一番単純な、光をスペクトルへ分裂させて統一するという弾みで生成のエネルギーへと変換される。生成の原理というのは生命の誕生時に海水中の有機物に光のエネルギーが差し込んで、その光のエネルギーが生の中で弾みながらスペクトルの青(雄性)と赤(雌性)へ分裂し光への再統一を単純に繰り返して生を推進させ、そのまま何の変化もなくきているだけである。光の持つ普遍的性質上それ以上複雑化することはありえない(物理学の最小の法則、ライプニッツの最小時空の最大効果)。自然はまったく単純な光の分裂と統一を永遠に続けている。単純な構造のまま経験が含蓄されていく視点に入れば最小限の同一性を伴う生の自己外化が成立する。生は光のエネルギーを受けて、光をスペクトルへ分裂させ再び光へ戻って統一するという弾みで成長運動を繰り返す。もともと生命の誕生の瞬間は海水中の有機物に光のエネルギーが入って自律的な運動が始まったことによる。一番単純な、光をスペクトルへ分裂させて再統一するというその弾みで生命は進展してきた(最小の法則)。
いよいよこれから聖杯と聖杯の中身を自分の心の中に発見する準備に入る。
聖杯を発見するための「真理の図式1」またの名を「光の範型」を理解することによって聖杯発見の準備に入る。
真理の図式1を見るとき下から上に生命が光によって分裂してスペクトルに分かれ、また光に戻るという想定をする。分裂と統一の不可逆的循環運動をしている生のパルスが分裂した瞬間を捉えたものである。またこの円形の図を単なる平面とは見ないで、意識の表面から奧に向かって深さがあるように見る。目に見える態度の識別から衝動の識別へさらにその原因の光へと奥行きを与えて見ることで円が円柱になる。 心の動きを認知するための2つの例に注目する。1.高ぶるから謙遜へ 2.気のゆるみから引き締まりへ。例1.私たちはうっかりすると、生意気になりやすいが、高ぶると後悔して謙遜になる。(生意気な人に自尊心を傷つけられると苦しくなり、当初は許せなくなるが、しばらくして許すとラクになる。)例2.疲れてくると仕事をさぼったりして気が緩んでだらしなくなるが、後悔して気を引き締める。(テレビを見過ぎたり、インターネットをやり過ぎたりなどもこのたぐい。)心の中の運動の変化でこの二通りに特に注目し、内容の違いを区別する。例1.は光からスペクトルにいったん分裂した「青」から統一の方向の「黄色」への動き。例2.は「赤」から「緑」への動きである。心を青と赤へ拡張していく「行く運動」と黄色と緑へ収縮して調整し直す「戻る運動」がある。そういう短期間のパルス(律動)で行ったり戻ったりの弾みをつけて我々の心は成長運動を続けていく。この関係の全体を凝視して焦点が合うと分かりやすくなる。 高ぶったり生意気になったりするのは生を拡張する雄性衝動に原因があり、気が緩んで楽を求めるのは雌性衝動に原因がある。後悔して謙遜になったり、また義務を果たそうという気になるのは中心へ戻ろうとする道徳衝動に原因がある。生の運動が光の分裂と統一の弾みに基づいていることにこの図を通して気がつくことが必要である。生は分裂に向かうと、表層意識へ来る。それは停止(悪)の方へ向かい、そのまま行きすぎると生が停止して破壊されてしまうから、どこかで反転して統一の方向の深層意識の流動(善)の方へ向かう。分裂と統一には善悪の対立関係がある。生が自然に流動しながらどんどん進化していくことが善。停滞し、よどんで進化がなくなってしまうのが悪。成長運動は分裂で悪へ傾斜し、統一で善の流動体となる。 生の律動(パルス)は光によって成り立っている。背後にあるその衝動の動きが人間の態度で表現される。分裂した衝動は青・赤・黄色・緑に分かれ、4つの領域にまたがり、スペクトルに分裂したり光に統一されたりの上下運動を繰り返す。この上下関係で流動が善で停止が悪という善悪の対立を示している。こういった全体の関係に焦点が合って掴めると生の真理が把握される。アプローチがよければ真理の把握は意外と簡単である。この視点を基準に様々な神話の暗号解読や哲学の理解も本格的に出来るようになる。
福音書の暗号体系
そこでここから福音書の暗号体系の解読に入っていく。 手順としては、まずマタイとマルコの福音書の冒頭にある系図と予告を説明する。それらが聖杯の形成要因である。そして聖杯の中身である「神の愛のエネルギー」を自覚的に発生させるための必要条件である、心の構造が物語の構造によって組織的な比喩で対応していることを確認する。それによって、心の運動法則を理解して、自覚的に心を中心に持っていくことを覚える。これによって聖杯の中身を浄化し、「神の愛」が発生できるようにする。
新約聖書のはじめは4つの福音書がある。それらは順にマタイ、マルコ。ルカ、ヨハネと並んでいる。はじめの二つの福音書は特徴がある。マタイには父子関係を中心とした系図が書いてあり、マルコには3人の人物が登場して、それぞれが予告をする。冒頭に書かれていることはこれから起こる出来事のあらましであると考えることが出来る。福音書は人間の心を救済して、神の国へはいることを意図しているから、その前提として我々は人間の心について知らなければならない。そのことに無知であると、自覚的に自らを変換して聖なるエネルギーを手に入れることは不可能だからである。そこで系図は心の空間についての定義、3つの予告は心の時間についての定義と見なすことにする。 前者は空間のコード、後者は時間のコードということになる。そうすることで我々は合理的に心という暗闇を明るく外化するきっかけをつかむことが出来るようになる。そしてこの系図こそが実は円柱状の聖なるコップを為し、その中に聖なるエネルギーが入ることが出来る、 聖杯である。その有様をこれから確認することになる。
空間のコード
実はこの系図は福音書全体が心の暗号体系を形成し、その骨格構造を示すという視点に立つと全体の構造が簡単に分かる。14という数字は2で割ることが予想される。7が完全数だからである。そこで7×2によって構成されるものが3つあることを想定すると3次元の軸構造を思い浮かべることが出来る。(7×2)×3あるいは 14×14×14は3次元空間を作る。現代人はその3次元空間の形成によってすぐ球体を思い浮かべるかも知れないが、そこで出来上がるのは球ではなく円柱である。 なぜかというと、ここで行われているのは我々が外化する心の構造で、それは球体ではあまり意味を成さないからである。
時間のコード
第2福音書の冒頭には3人の3つの予告がある。これが何を意味しているかは明瞭である。これらは3つの時間帯に分けられている。福音書には時が満ちるということが重視されている。人間の精神が発達するにつれて3つの段階で予告とその予告の成就が行われる。それぞれの予告とその成就を一つの時間帯と見て、第1と第2の時間帯については次々と予告が成就する。第3の時間帯、つまりイエス・キリストが来て神の国が近づいたという最後の予告のみは成就しない。それは完全には成就しないものとして我々の頭の中で徐々に近づいてくる。 聖杯になぞらえて言うならば、 予告とその成就は、杯と杯の中身を形成するプロセスを意味する。 人間の精神が発達するということは、人間が自分についての理解が行き届いていくプロセスでもある。はじめは全く自分について分かっていない状態だとすると、自分の心の運動が形成する内容についての極性が分かっていないことになる。自らについての正しい知識を得るということは、自らについての像を持つことになる。その像は構造的に極性を持つ。その基本的極構造が形成されると自己の像が出来る。時間の経過によって自己自身を理解するとは、自己の像を形成する極関係が発達することを意味するのである。 そこで第1の時間帯は旧約の預言者がヨハネが来るという予告をする時代で、この時代はモーセの十戒に依って示されるように、殺すな、盗むな、姦淫するな・・・などとただ単純な命令があり、自分自身の極が存在しない、無極の時代である。 第2の時間帯は洗礼者ヨハネが登場する。ヨハネが授ける洗礼は、人間のエゴを水の中へ鎮める動作であるから、上下の極性が出来る。ここで初めて自分が自分を振り返るとき、単一の極性が存在し、その極性の下の方へ自分を導けばいいことを理解する。しかしこの時代は自己はまだ洞察力が浅いため、しばしば自分自身に裏切られて、エゴの力に振り回される。それが洗礼者ヨハネが世の力であるヘロデによって首をはねられることの意味である。
第3の時間帯になって初めてイエスが登場する。このイエスの作る極性は4象限の十字になった軸に光のスペクトルが絡み合った複雑な極性である。これこそが後述するようにマタイの系図と物語の構造、そして十字架のキリストのそれぞれ異なる3つの事柄が同じ空間像を指し示している、複合極性の図像である。
時間のコードのさらなる解題 このような極性に基づいた時間帯を設定することで福音書に隠れている時間についての様々な表象が一気に分かるようになる。
三日三晩が三つの時間帯の区切りに対するもう一つの表象である。 空間と時間のコードから物語と心の構造の一致へ
時間のコードは無極性から単一極性を通過して複合極性を形成していくプロセスを示す。そしてそのようにして出来る複合極性の構図がマタイの系図によって構成される円柱であること。その円柱の中にあるものは神の愛のエネルギーである。それは生成の純粋な運動でもある。しかしそれがどのような構造になっているかはまだ示されていない。いったん生を分解して構造化してから元の生のエネルギーへと統一することの出来る、生成の原理は比喩の体系が心の構造と一致関係にあることによって示される。そこで我々はこれから物語の構造と心の構造の一致を確認する。それは先ほど見た「光の範型」が示した態度変換の原理にサポートされて明瞭に浮き上がってくる。
物語の構造と心の構造の対応関係
流動の極大化、能動と受動によるエネルギーの束縛からの自由化
ここでの要点は、 物語の構造つまり物語を構成する基本的要素、 人物・背景・筋の組み合わせが 心の構造である構成要素( 元型)・場・運動 を具体的に表象することで、見えない心の構造が見えるようになるということである。福音書はそのようなことをしているから凄いのである。ただ誰もこれまでそのような視点で捉えてこなかった。私の場合は徹底して歴史上のイエス・キリストを排除して、禅の公案を解くようにして福音書と対峙していたからこのような解明が可能となった。福音書は心を外化する組織的隠喩体系以外の何ものでもない。そのように心を組織的に外化することで、聖杯の中の愛のエネルギーをいったん分解して再合成することが出来るようになる。
ガリラヤ ティルスとシドン 心の表層
自分の心の中に心についての正しい構造的イメージを持つには、心の諸特性についての基本的構成要素とその場が分かっていないとうまくイメージ化ができない。自分の心に何らかの引っかかりがないと、目に見えない心の姿を外化することは出来ない。それを可能にするのが宗教のシンボルである。 そこで物語が成立するには、3つのコンポーネントがある。それらは人物と背景と筋である。人物がいないと物語は成立しないし、その人物がいる場所がないと物語は成立しない。そして主人公が何らかの行為によって筋を進めないと物語は成立しない。 人物によって心の特性とその特性が所在する場所が指定されていると、自分の心を知る上でとても便利である。律法学者・パリサイ人、取税人・遊女、幼な子はそれぞれ心の基本的特性、青、赤、黄色と、それがある場所を示している。それらによって円の中の心の特性と場所が確定する。真理の図式2のそれぞれの位置に配属される。次に人物の中でも大きな役割を持っている。弟子たち、洗礼者ヨハネ、イエス・キリストの3つは、円の全体の円柱から見てそれぞれ異なる切り口を示している。弟子たちは漁師であるから、湖の中から魚を釣り出すのが仕事である。これは表層意識のエゴが深層意識のセルフを引っ張り出すということで、弟子たちは円柱の表層部分にあたる。洗礼者ヨハネはエゴを水につけて引っ込ませるのが仕事だから、表層から深層への変換の象徴である。つまり円柱の中を上下する。イエス・キリストは深層にあって、復活の準備が出来ている精神にのみ現実化して表層へ上がってくる。つまり、上中下と区分すると、弟子たち・ヨハネ・キリストがそれぞれに当てはまる。
地理関係と精神の場の一致関係の規定
ガリラヤとティルスとシドンの関係は マタイ11:21-22において、ティルスとシドンはソドムとゴモラの象意を与えられ、スペクトルにおける赤つまり快楽や本能の意味を付与され、複合極性の左上の特性と一致する。がリラヤの町々についても複合極性の右上の特性を付与される。
ベツレヘムで生まれ ガリラヤで宣教し たまにティルスとシドンへ行き エルサレムで磔刑の死を遂げる また復活する それは本当はまた磔刑の死を遂げるというように生の律動の不可逆的循環になっている この生の律動が物語全体を統合している
聖杯の中の葡萄酒 キリストの購いの血
聖杯の血がどのようなものであるかは次のように理解すると分かりやすい。私たちは、それぞれ
某年某月某日に母の胎内から生まれてきた。いったん生まれたからには生き延びるしかない。小学校、中学校、高校と、オール百点、オール5で完璧こなしてきた人はいない。不完全な世界で不完全な能力で苦しむ。まわりの人が皆いい人たちだったわけで
もない。様々な出来事に直面して苦しんだ、その苦しみは実は清算されていない。心の奥は皆純粋だから、血を流して苦しんだ自分がいる。それが比喩で表現されたキリストの十字架である。
キリストの十字架が実際にあったかどうかはよりも、私の心の奥にそれに似たものがあるというkとを認知することが大切である。誰でもキリストの十字架のようなものを持っている。人間が生きているかぎり必然的に抱え込む苦悩の流血を担保にして罪の清算が出来るということ
に気づくことなのである。何の根拠もなく自分を許すことは出来にくいが、そういったことを認知すれば許すことが出来るということが大事なのである。ここでは人間の生について合理的に捉えられている。キリストの十字架は
実は自分自身の中にある。聖杯とは自分を外化するときに出来る心の図式の枠組みである。「光の範型」という心の図式がありこの一番奥に十字架のキリスト像がある。そしてそれは不完全性に苦しみもだえる、意識の奧の純粋な自己でもある。キリストの十字架のようなものの認知が神との取引を可能にし、罪の許しが与えられる。十字架のキリストの認知は罪が許されるための契機である
聖杯探求は心の正常化の探求
およそ心のひずみというものは自意識偏向が起こっていて自立的な生の律動が戻りきっていないため機能がわるくなっている状態である。これを生の法則を自覚することによって態度変換のよい方向を理解し、戻ることに対する抵抗をなくし、自分が自分に説得されるようにする。自律的に戻るように導いて自意識偏向によって機能が悪くなっている心が良く機能するように変換していくことである。
聖杯を見つけるとは、元々存在する自分の心の中の単純な分裂と統一の光の法則に目覚めることである。そしてその法則に則して、自然な生の流れが発揮できるように自分を整えてあげることなのである。混沌としていた自分の心の中に生命衝動についての秩序が見出され、同時に道徳的秩序が見出されていくこと。それによって自己コントロールがうまくなること。そういうことが聖杯の発見である。
また福音書の暗号体系にしても実は難しいものでも何でもなく、心の本来の構造に即した譬えを媒介にして、いずれ時が来ると、私たちが自分自身の心を見ることができるように作られているのである。私たちがその法則に従うことで、自然本来の生き生きした生命力を回復するため、あるいは何事にも上達していくための、生についての合理的な導き手になっている。一部のクリスチャンは信じれば永遠の命がもらえるなどと言っているが、それは盲目的な信仰で、字義通りではなく、このようにして合理的かつ論理的に永遠とつながることなのである。
結論
こうして聖杯の中には能動的視点からは「神の愛のエネルギー」が存在し、それは自覚的に生成することの出来るものである。そして受動的視点からは「贖罪の血」が流れており、それは自分自身の贖罪の血でもある。
それによって受動的に足かせをはずして、生の流れをよくしていくことである。このような聖杯とその中身を発見することによって人間は「神の愛のエネルギー」と一致していく道が開かれていく。
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