ダ・ヴィンチ・コードと聖杯
はじめに
ダ・ヴィンチ・コードを終わりまで読んで、その結末が物足りないと思ったのは私だけではなかった。私と話したほとんどの人たちが異口同音によく分からなかったと言っている。
物語の発端で起こる事柄、イエス・キリストの秘密を隠しておくためのカトリック側がシオン修道会のトップメンバー4人を殺人したことと、その秘密が顕わにされるべき結末が全く咬み合っていないのである。一体どうしてこうなっているのだろうか?
ダ・ヴィンチ・コードの著者、ダン・ブラウンのプロトタイプ・アイデア、ないしは基本になるクライテリアは何か、というところからこのミステリー小説を見ると、そこには必然的な限界が敷かれていることが分かる。小説に書かれているダン・ブラウン氏の宗教理解からすると内的体験もなく宗教的な真理に対して未だ盲目であるから、相当な限界の中での創作である。
起こった事柄に対応するしっかりした結末を書く能力に欠けていたのである。それでも、その割にはよく出来た作品であろう。人を楽しませる謎解きの要素が随所に散りばめられていることと、イエスが
ほんとうに神人であったのだろうかという現代人の疑問と、人間イエスの結婚説など時代の要請に応えるようなものがあるので流行るのである。材料となったのはダ・ヴィンチの絵画「最後
の晩餐」と種本「レンヌ-ル-シャトーの謎」の特異な聖杯解釈、「聖杯マグダラのマリア説」を中心において、サイドに宗教的象徴やフィボナッチ数列など数学的暗号解読の材料、キー・ストーン、テンプル騎士団、シオン修道会やオプス・デイなどの諸団体、宗教的象徴が配された諸寺院など、なかなかの材料を集めて筋の立つように配合している。それらを自分の頭の中で何度も摺り合わせて、彼なりに、より良いものを作る努力が為されていたためそれなりに面白い小説になった。ちょうど「ハリー・ポッター」の著者J.K.ローリングが既に世界各国のファンタジーに通じていて、かなり頭の中が整理されており、様々な組み合わせによって面白い物語を書く用意が出来ていたように。
ここではダ・ヴィンチ・コードの後半のテーマとなる聖杯探求の本当の意味を考える。聖杯はマグダラのマリアの子宮などではなく、もともと個人の心に発見される真理や神の愛として扱われてきた。ダ・ヴィンチ・コードの聖杯解釈が、ダ・ヴィンチとの関連からやむを得ないとはいえ、あまりにお粗末なので本来の意味を提供する。
ダ・ヴィンチ・コードの結末で我々が本当に知りたいと思っていたこと、イエス・キリストの本当の秘密とは?いったん歴史のイエスが人間になったなら、神の子イエスは別次元から、つまり我々の意識の背後からのみ出現する。では一体その出現の在り方はどのようになるのであろうか?どのようにしたらその出現を合理的に促すことが出来るのであろうか。それこそがシオン修道会やその他の秘密結社が追求して、聖杯の秘密となりうる、宗教的エリートの秘義である。そしてそれこそが教会がその秘義の教えを持た
ず相変わらず実在した神の子に依存しているが故に恐れる、実は神人イエスはいなかった、しかし真理として別様に存在さしめることが出来るという、真実が曝かれる事柄である。
ダン・ブラウンのダ・ヴィンチ・コードにそこまでを要求するのは無理である。そこで、物語の結末に欲求不満の読者たちに、より刺激の大きい、イエス・キリストが意識の背後から復活のイエスとして出現するその有様についての内容をお話しする。こうして神の子イエス・キリストがいたという
古いキリスト教会の考え方の欺瞞?に息の根を止め、逆に合理的に宗教的体験を積めば自己元型としてのイエス・キリストが心の奥からやってくる道筋をつけることが出来る。新しい真理の世界が出現することを成功させよう。
そのようにして人類が自己コントロール能力を拡大して自らを自滅させないようにしなければならない。
既に「神は死んだ」とニーチェが宣言して100年が経っている。キリスト教会の権威も地に落ちている。遅かれ早かれ、いずれ誰もイエス・キリストが文字通りの神の子だったとは思わない時代がやって来る。天動説が地動説になったようにそれは当然のことである。しかし、真理は意識の背後から個人個人に覚知されてやって来る。それが新たにやってくるイエス・キリストである。その来臨を合理的に準備させるのがこの聖杯サイトの役割である。
あらすじと聖杯
全世界でダ・ヴィンチ・コードがベストセラーになっている。人類史上最大の絵画の巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチは絵画にさまざまな暗号を隠していた。その秘密を顕わにするということで、人々の興味を引く小説である。特に最後の晩餐に隠された暗号、キリストの隣にいるのが弟子のヨハネではなくマグダラのマリアらしいという指摘には説得力がある。確かに他の男性
たちに比べると、著しく線が細く、女性としか見えないような描き方をしている。
小説によると、ダ・ヴィンチは現在も続いているシオン修道会という秘密結社の総長をしていたという。このシオン修道会は11世紀に設立され、イエス・キリストがただの人間だったし、しかもマグダラのマリアと結婚していてサラという娘までいた、という秘密の証拠を握っているという。その秘密が暴かれるとキリスト教会は困るので、カトリックの過激な宗派オプス・デイはシラスという刺客を送り、シオン修道会が秘密を暴露しないように修道会の幹部を抹殺しようとした。秘密のありかを知るシオン修道会のトップの4人が惨殺されて、手がかりは最後に殺されたルーブル美術館長ソニエールが隠したクリプテックスと呼ばれる秘密の暗号が隠された円筒の中にのみある。物語はこのキー・ストーンとも呼ばれるクリプテックスをめぐって進展する。
警察とオプス・デイの刺客に追われながらハーバード大学教授のロバート・ラングドンとフランスの暗号解読官ソフィー・ヌヴーの二人の主人公が協力して、このクリプテックスに隠された聖杯の秘密を解き明かしていく筋立てになっている。そこでダ・ヴィンチ・コードの後半はダ・ヴィンチの暗号よりも聖杯が主題になる。クリプテックスは二重になっており、それぞれアルファベットの文字をいくつか合わせないと開かないようになっている。シオン修道会の秘密は今や聖杯の秘密に置き換えられる。ダ・ヴィンチ・コードでは聖杯はマグダラのマリアの子宮であるということになっているが、他方で「汝が聖杯を見出すのではなく、聖杯の方が選んで汝を見出す。」という聖杯に人格を与えてもいるので読者は聖杯の秘密に真理が隠されている期待感を抱く。
聖杯が何であるかについてはいくつもの解釈があって、キリストの最後の晩餐で使われた聖杯がもともとの意味であった。12世紀の聖杯伝説では、それがただの杯ではなく、それを発見すると発見者は次の世代の王になるとも言われる。この場合は聖杯が真理の象徴なので、真理を知るものが優位に立つことの意味である。中でもアーサー王と円卓の騎士にまつわる物語で、
パルシファルという騎士がなかなか発見できない聖杯の城を見つけてから、そこで聖杯を見て、それについて正しい質問をすると、呪いが解かれ、そこの城主の病気が治り、その辺り一帯も生気を回復するという聖杯伝説が一般的である。聖杯探求の聖杯はシンボルとして働いて、実は人間の心に真理を発見することとして受け取られるので、今でも人々の興味を引いている。
ダ・ヴィンチ・コードではクリプテックスの暗号を解くにしたがって話が聖杯に移るので、いやでも人々の関心は聖杯探求に向かっていく。そして聖杯に隠された秘密は何
なのか?に焦点が移る。重要な登場人物の一人、ティービングが長年聖杯を研究し、聖杯の秘密を知ろうとしていることから推測すると、聖杯は単にマグダラのマリアの子宮だけではないような印象を与える。ところがダン・ブラウンが種本に使って影響を受けた「レンヌ-ル-シャトーの謎」や「マグダラのマリアと聖杯」(マーガレット・スターバード)の著者たちが聖杯マグダラ説を支持している。もっとも「マグダラのマリアと聖杯」が「レンヌ-ル-シャトーの謎」の影響を受けていることは歴然としているから、元はレンヌ-ル-シャトーなのであるが。ダ・ヴィンチ・コードでは結局聖杯はマグダラのマリアの子宮になっている。問題は
この本の結末である。シオン修道会の秘密は具体的には明らかにされず、マグダラのマリアの墓も発見されず、聖杯の意味もうやむやのまま物語が終わる。こうしてミステリー小説の最後に残された読者は、読後の快感がなくスッキリしないままに終わる。ほとんどの読者は本の結末に不満を持っている。キリスト教会を揺るがすような秘密が何ら明らかにされず、暗々裏に筋を引っ張っていた聖杯の本当の意味も秘密文書の所在も明らかにされないからである。
聖杯の本当の意味
聖杯がマグダラのマリアの子宮であるというのは聖杯を現象の世界で見ていることになるから、
それが心の中を写す隠喩としてみられているわけではない。もともと聖杯は自分の心の中に発見される真理のシンボルであるからこそ人々の興味を引くのである。聖杯研究の大家、コロンビア大学教授の
故ロジャー・シャーマン・ルーミス博士
の著書 "The Grail"(邦訳なし)によると、12,3世紀に一気に花開いた聖杯伝説では、聖杯の中身が重要で、それは
結局は「神の愛」だという。聖杯の中にあるのは「神の愛」のエネルギーである。つまりそれを自覚によって自由に発生させることが出来るようになることが聖杯を自らのものにして、聖杯の守護者となり、真理を体得することになるのである。
聖杯の中身はもともとの福音書では最後の晩餐における、パンと葡萄酒であった。キリストの身体、キリストの血、それは後述するように「神の愛」の別の表現でもある。12世紀の聖杯伝説における聖杯の中身はカトリックのミサで信仰者に与えられる聖餅に置き換えられたり、あるいは聖杯伝説の創始者、クレチエン・ド・トロワによるとオスティーという栄養のある食物になっていたりする。これは福音書にある最後の晩餐で「パンと葡萄酒」のパンにあたる。つまり聖杯の中にはパンにあたるものと葡萄酒にあたるものとの両方が入っているのである。(マタイによる福音書冒頭の系図が心の全体の枠組みを示し、円柱として聖杯を形成する。福音書の冒頭はこれから起こる事柄の全体像を示してい
る。福音書全体の暗号体系はその中の生命エネルギーのしっかりとした流動体=内なるイエス・キリスト=聖霊を示し、それを自ら発生させる仕方を教えている。聖杯を作り、聖杯の中身をも作られるようにしてくれているのである。)
福音書の中では食事をする場面がよく出てくるが、それらは生命エネルギーの補給の比喩である。特に最後の晩餐はその完成体として見ることが出来る。聖杯の中に聖なるエネルギーが「神の愛」として存立する必要十分条件が、そこにあるパンと葡萄酒を食することにある。聖杯の中にそのようなものをどうやって発見することが出来るのか?個人個人の心の中で聖杯を発見し、真理を見出し、それを模倣して聖なるキリストの身体、キリストの血を自分の中に見出しつつ生きるような在り方へ人間は変換していくことが出来る。それが聖杯探求の意味である。そこで本当の聖杯の意味を探ってみる。
聖杯の中身を福音書の暗号体系に即して適切に分析すると心の形態が見つかる。心の形態を知ることが真理を知ることになる。聖杯を発見すると自由になる。後述するようにマタイの冒頭にあるイエス・キリストの系図が比喩となっていて、実は心の骨格=聖杯を形成している。聖杯そのものは心の形態の外枠のことである。それが円柱状で、コップのような形になるので。聖杯の中身は光の法則に基づいた生の流動体である。滞りのない生の流動がキリストの体である。心の形態と言ってもそれは必ずしも靜態的なものではなく、動的な(不可逆循環)運動を含む。聖杯を発見するとは聖杯の中身も含めて発見することである。聖杯の中身は流動的な生命エネルギーである。神の愛のエネルギーである。それ自体は捉えがたいものである。その本質構造を捉える。それによってその本質構造を模倣しやすくなり、真理に生きるようになる。聖杯を発見するとは真理を発見することだから大変意味がある。
聖杯の中身はキリストの身体とキリストの血。パンと葡萄酒でたとえられた福音書の比喩の構造=心の構造と心のエネルギーである。
聖杯はいろいろな解釈が存在する。12世紀から13世紀にかけての聖杯伝説では旅に出てそれを探し求めた騎士が聖杯を聖杯の城で発見する。それによって王が癒され、騎士は次世代の王となる。ところがこの聖杯は文字通りの聖杯ではなく、人間の心に発見される聖杯である。聖杯探求の旅が寓話として、聖杯の内容自体とも関わっている。聖杯伝説の聖杯でも曖昧なまま残された本当の聖杯とその中身は実は神の預言の書、あるいは神の啓示の書として最も優れた新約聖書の4福音書の中に隠されている。その事実を究明して、さらに聖杯の彼方にある福音書の暗号体系全体まで話を及ぼしたい。
聖杯自体は最後の晩餐ではキリストの身体とキリストの贖罪の血の容器として示されている。しかし、ここで聖杯伝説で真理を知ることで癒されるという意味での聖杯は福音書の真理を縁取るという意味での聖杯である。聖杯の真理そのものは聖杯伝説では明確に出てこない。そのような聖杯のありかは実は新約聖書の巻頭に隠れて存在しているのである。それこそが神の子イエスに対応する聖杯である。
こうして最後の晩餐のパンと葡萄酒は生命エネルギーの流動を促す二つの原理となる。流動(善)と停止(悪)における 流動の必要十分条件である。体と血は、生成の運動と心の負い目をはずして流動を受動的に促す贖罪の血である。能動と受動の両方で生の流れをよくする工夫が為されている。自ら生を統合さしめる能動的エネルギーの使い方と負い目をはずしていく受動的エネルギーの使い方、それを福音書は教えている。聖杯の中身はそのような二重の内容によって生成が順調に行われるように仕組まれている。神の愛に生きるとは能動と受動の両方で生が不完全性の世界で順調に展開される必要十分条件である。両方とも神の愛である。
最後の晩餐とは一方でユダの裏切りによるイエスに死をもたらす受難の始まりであるが、他方でキリストの体である生命エネルギーを使えるようにする卒業式である。(生の循環性)
マタイによる福音書冒頭の系図が表す比喩の円柱はいったん物語の構造で分解されて、心の形態となるが再合成されて生命エネルギーとして「神の愛」の融合体となる。それが聖杯の中身である。それを自覚的な統合体として行く能力と技能が聖杯の守護者の力である。
ダ・ヴィンチ・コードとキリスト教
シオン修道会が証拠となる秘密を握っており、それが暴露されるとイエス・キリストとマグダラのマリアが結婚していた事実が明らかとなる。合わせてイエスはただの人間だったということで、キリスト教会は打撃を受けるということになっている。それを公表されないために、カトリックの宗教結社オプス・デイは刺客を送り、総長以下4人を惨殺した。だから当然物語はその公表されたくない秘密、それが同時に聖杯の秘密であるが、最後に判明することを読者は求める。さらにまたもともと聖杯として存在するものは一体何かに興味をもつ。
しかしこの本は全く宗教について分かっていない人が書いたものなので、聖杯はマグダラのマリアに置き換えられ、内容がきわめて軽くなっている。それに加えて、この本は宗教そのものに対する無理解のため、真理を知ろうとする人たちの道を塞いでしまっている。真理を知りたい人たちは、真剣に自分の人格統合の道を求めているのである。もちろんダ・ヴィンチ・コードは単なるミステリー小説の域を出るものではないが、宗教に対する誤解、つまり「宗教は虚構だ」と言って、あたかも宗教的真理が存在しないかのような印象を与える。全然分かっていない人が知ったかぶって存在の真理に人々がアプローチする道を塞ぐような不遜なことをするのでキリスト教会から反発を受けるのである。
宗教の本は無意識を含めた人間の心の構造に即して、比喩で物語が書かれている。人間が経験を積むにしたがって、その隠れた構造が顕わにされるように出来ている。そういったことがあるため、原始キリスト教はローマ帝国の中で蔓延していったのである。単なる虚構の教えであるならば、そのような生きた力がないため自然消滅していく。
とはいえ、教会の言う「神の子イエス・キリストが現実に存在したのだ」と言うのも嘘があるのではなかろうか。かっての天動説が誤りで、実は地球が太陽のまわりを回っていたように、そんなことはなかったはずだと思うのが現代人の健全な常識である。イエスはただの人間だったのかも知れない。ところが、それを「歴史におけるただ一つの神の子の出現」であるとすると現代人にはそのような事柄を受け入れるのには無理がある。この世界には秩序の原因があり、普遍的な生の原理も存在する。それを具現化したものがイエス・キリストであるとキリスト教会が主張するならば、それは地上にいた神の子ではなく、我々の心に発見される真理の生の統合体であろう。それを導くのが福音書である。もし神の子がいるとするならば、啓示の書と言われる福音書の中から準備の出来た精神に出現するのが神の子イエス・キリストである。
宗教は虚構か?では宗教の本質は?
ダン・ブラウンのダ・ヴィンチ・コードは、宗教者の方からは悪意が混じっていると思われる件がいくつもある。ティービングに言わせる「すべて宗教は虚構だ。」という様な発言がそれである。ダン・ブラウン自身が宗教的人間でなく宗教に無知なため、どちらかというと知らずに書いているものなのであろう。宗教的人間からみれば当然了解されている個人の精神にある内面的な自己了解が何も出てこない。宗教者はある程度精神の覚醒を経て、究極的実在に近づいていく。宗教的象徴はその模倣の対象なのである。それが組織的になっている場合、心の構造を経典自体が模倣しているので、それに参与する宗教者も模倣しやすいということなのである。一般に宗教のたとえ話などは、準備の出来た心にその意味が顕わにされていく。神の啓示とは徐々に人間の精神の構造とその統合への原理を顕わにしていくものである。集合無意識の元型が生の元型的運動をするその本質構造を顕わにしていくものなのである。そのような事実を感知する人たちが宗教的な人たちである。したがって、カトリックにしろプロテスタントにしろ、信仰のある人たちは虚構を盲目的に信じるのではなく、自らの精神を統合してくれる原理の存在を覚知して、そのさらなる一体化へ向かって、何らかの心の経験をして信仰生活にはいる。そして悟りが充実して行くに従って、断片的なものから総合的なものへと変換していく。ダン・ブラウンにとって現象の世界での暗号解読能力はあってもそれは叡知的な精神に秘められた暗号を解読する能力ではない。聖杯伝説における暗号は精神の暗号解読能力が要求されているのである。中世の聖杯伝説での主人公、パルシファルやガラハッドが発見する聖杯は精神の中にある聖杯の象徴(比喩)である。
聖杯マグダラ説
聖杯マグダラのマリア説はもともと傍流の解釈である。南フランスにのみ存在するマグダラのマリアにまつわる伝説にレンヌ-ル-シャトーの著者たちが加担してできたもので、聖杯伝説の研究者からは全く相手にされない奇説である。聖杯と言えば聖杯伝説の聖杯が主流である。聖杯伝説では騎士が旅をしながら聖杯の城にたどり着き聖杯を発見する。そのとき適切な問いを発すると、聖杯を守っていた、けがをして病気だった王が癒される。聖杯伝説で発見される聖杯は象徴として何を示すか?それは聖杯のようなものとして人間の心に発見される真理についての図式である。しかし、それが具体的にどういうものかは聖杯伝説の範囲では不明瞭なままである。まだ漠然として聖杯の中身が真理の内容として明確に提示されてはいない。その聖杯の中身をこのサイトは福音書にもとづいて明らかにする。
聖杯がマグダラのマリアの子宮だとすると、最後の晩餐の杯からの示す隠喩から大きく離れ、聖杯が人間の意識の中で自らの心の本質に関わる隠喩ではなく現象界の別物、特定の人物の子宮という、真理とはかかわりのないものになってしまう。この場合は聖杯が人間の心についての比喩であるという道は閉ざされる。つまり真理を知ろうとする道が閉ざされてしまう。ダン・ブラウン氏が聖杯をマグダラのマリアとしたため、従来の聖杯伝説からは主流ではない、傍流の解釈にはまってしまった。
「レンヌ-ル-シャトーの謎」
「レンヌ-ル-シャトーの謎」の著者たちがマグダラのマリア説を唱えている。それに後継する「マグダラのマリアと聖杯」を書いたマーガレット・スターバードもマグダラのマリア説を唱えている。ダン・ブラウンはこれらから影響を受けた。この説はダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵にある暗号から物語を展開するのに都合がいいため、ダン・ブラウンとしては採用せざるを得なかった解釈である。と同時に著者が形而上学的洞察力がないためこうならざるを得なかった。
これらの著者の本は宗教を形而上学として十分にこなせるだけの内容を持っていない。
ダ・ヴィンチ・コードにおける聖杯の意味の混乱
ダン・ブラウンの小説中には聖杯が単にマグダラのマリアの子宮とは考えにくい、読者を混乱させる内容が所々に出てくる。このため読者は聖杯の謎を拡げて解釈する。聖杯がマグダラのマリアの子宮だと以下のような命題はおかしなことになる。ところが聖杯は神の象徴だとするなら意味が通ってくる。「汝が聖杯を見出すのでなく聖杯の方が汝を見出す。」この聖杯伝説の言葉の引用は心の中に聖杯を見出す、聖杯物語の典型的な命題である。この言葉を使うから混乱するのである。
ダン・ブラウンのダ・ヴィンチ・コードは聖杯の解釈をマグダラのマリアの子宮としてあるため最後の結末がマグダラのマリアの墓も出ず秘密の文書も発見されずで、読者に読後の満足感を与えていない。宗教に対する理解力も足りず、多くの誤解を招き、混乱させている。
ダ・ヴィンチ・コードの後半部はレオナルド・ダ・ヴィンチの名画に隠された暗号から離れて、聖杯の秘密を解読することが一人歩きをする。シオン修道会が命がけで守ろうとした、クリプテックスに隠された聖杯と秘密文書の隠し場所は一体どこかということが物語のテーマとなる。ところがこの事柄の解明は中途半端に終わる。マグダラのマリアの墓とそこに隠された秘密文書が発見されること、そしてその中身がどうなっているかを読者は知りたかったのである。マグダラのマリアの墓の場所は明らかにされず、秘密の文書の所在も明らかにされないまま物語は終わってしまうのである。一体何のために4人は殺害されたのであろうか?
シオン修道会
総長リストの真贋 ニュートンもダ・ヴィンチも膨大な記録を残しているが、シオン修道会について全く言及がない。シオン修道会の総長のリストならびに歴史なるものは最近の総長の願望に基づいた幻覚による。(ダ・ヴィンチ・コード実証学 マリ=フランス・エトシュゴワン イースト・プレス)
聖なる血筋
聖なる血筋(サングラール)は、字義通りだとイエス・キリストの子孫になるが、もしそんなものがあったとしても下へ行くにしたがってどんどん薄まっていく。聖なる血筋とは本来マタイの系図のことを指す。父子関係の連鎖がアブラハムからダビデを通ってイエス・キリストまでの系図。ところがこの系図は男の家系でのみつながっており、父親のヨセフからイエスへつながるから、もしマリアが処女懐胎であると、イエス・キリストとダビデは血がつながっていないのである。聖なる血筋のもう一つの考え方は、この世界には現象のユダヤ人ではなく、神によく似た激しく純粋で、しかも罪深い、善悪のメリハリが比較的はっきりする人たちが存在する。これを本体的ユダヤ人、あるいは「イスラエルの失われた羊」と福音書では表現される。これらの人たちは自己矛盾に悩む人たちで、宗教的な救いを必要としている。これから話す内容として、光による生の自己運動の大きな人たちである。人種に関係なく、このような宗教的な人たちこそがむしろ「聖なる血筋」と呼ばれてもよい。
聖杯伝説
12,3世紀の精神は一時的に非常に活性化した。聖杯伝説が起こって、12世紀の終わりから50年間に重要な10のものが全部出揃った。異端のカタリ派が拡がったのもこの頃だし、中世最高の哲学者トマス・アクィナスやドンス・スコトゥスが活躍したのもこの頃である。日本では鎌倉仏教が興隆し、親鸞、道元、日蓮などが輩出した。
典型的聖杯物語はフランスで書かれるが実は英国のアーサー王伝説に基づいている。その主なあらすじは、聖杯の城と漁夫王についての物語である。見つけるのが難しい城で病気の王が聖杯を守っている。その付近の土地は荒れている。十分に準備の出来た騎士がその城を見つけ、そこで彼がはじめて目にした聖杯について、或る適切な問いかけをしなければならない。「この杯で誰が食するのか?」という、この問いを発することを無視すると、すべてはもとのままで、城は消え失せる。騎士はまたはじめから探索をしなければならない。再び長い冒険の旅の後、うまく聖杯の城を見つけることが出来、その適切な問いを発すると王は健康を回復し、荒れた土地は緑を取り戻し、その英雄はその時から聖杯の守護者となる。主人公ははじめパルシファルという若者であるが、後にガラハッドという有名な円卓の騎士ランスロットの息子に取って代わられる。
聖杯研究の系譜
コロンビア大学教授で聖杯の権威ルーミス博士によると聖杯物語は12世紀の末から13世紀半ばにかけての50年間に10つの主要な物語が書かれている。そのうち8つはアーサー王の円卓の騎士が聖杯を探し出す物語で残りの2つは聖地エルサレムからキリストの杯を英国へ持ってくる話である。聖杯物語は主としてフランスで書かれているが、実際はケルトのアーサー王伝説の話である。聖杯物語は孫悟空や八犬伝のように人間の心を問題にしている。準備の出来た騎士だけが聖杯を見つける。王は癒され荒れ地に花が咲く。そして発見者は聖杯の守護者となる。これらの話は元型の物語である。自己元型へと近づく神秘体験が聖杯との出会いである。聖杯物語は自分の心に聖杯を発見するための手引きとなる物語である。それによって高次元の自己を発見するということである。
このような物語はユング心理学が得意とするところである。ユングが生前聖杯に対する言及が比較的少なかったのは妻のエンマ・ユングが30年以上も聖杯を専門に研究していたからである。残念なことにエンマは1955年に聖杯の研究を完成することなしに逝去してしまった。その後を受けて、ユングの高弟であるマリー・ルイーゼ・フォン・フランツが遺稿を編纂し、かつ自分の見解を補足して完成したのが現在プリンストン大学から出版されている"The
Grail Legend"「聖杯伝説」(邦訳なし)である。本物の聖杯伝説がめざしたのはマグダラのマリアの子宮ではなく、シンボルとしての聖杯を心の中で発見する意識の覚醒である。
比較神話学の権威ジョセフ・キャンベルの遺作となった、ビル・モイヤースとの共著、「神話の力」(早川書房刊)の後半部でキャンベルは聖杯についていろいろと発言している。それを貫く一本の考えは、失敗をも含め、対立物を統合して自分の生の衝動をまとめて行くこと。他人の掟や押しつけに依るのでなく、やりたいことを出来ると信じて、自分の人生を生きること。それとともに、外の世界と自分の世界との調和をとる。もし自分の生を生きないと、すべてが荒れたままになる。T.S.エリオットの詩「荒れ地」はそれを意味している。自分の生を生きると、自分を通してまわりも生き生きとしてくる。
「それが聖杯の意味である」ということである。
またキャンベルによると、既に13世紀の大修道院の院長ヨアヒムは精神の3つの時代を唱え、第1の時代は神がイスラエルを選んで啓示を与えた時代。第2の時代はイエス・キリストが出現して教会がその教えを広めた時代。そして第3の時代は、13世紀のこれから始まるとして、聖霊が直接一人一人に語りかける時代であるという。
後期の聖杯伝説ではアーサー王の円卓の騎士、ランスロットの息子ガラハッドだけが聖杯を見ることが出来た。教会の教えに従うのではなく、個人個人が直接内なる聖霊の声を聞いて、
キャンベルは「私たち一人一人がガラハッドになれる」という。外典トマス福音書の言葉「私の口から飲むものは私と同じになり、私もその人になる。」というイエスの言葉を引いて、それが聖杯物語の基本思想であるという
ことである。
第2部へ続く
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