そこで残された二つの図における矢印の左上から右下への関係は個体における歴史性を表現している。左上は精神の創造の場面、そこは未分化な世界である。既にアウグスチヌスの創世記解釈は精神の創成という比喩的解釈であるが、クラウスもまた、それを参照したか否かに関わらず、このような考え方に立っている。意識の生成の無知と混屯から徐々に発達した精神はやがて福音書に邂逅する。それを媒介とすることで、精神を理解した修道者は聖体を拝受する。左上から右下への間に福音書の神の子の物語を挟むことで、人間の生は混屯から秩序へ、本能的衝動から自己を知る知性へと統合される。
つまりここには生の自己発展の運動の概念と、それを歴史的に貫く個性化過程の概念の二つが、全体として精神の概念として示されているのである。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルのドイツ観念論のモチーフが生の自己運動による、意識の始源から絶対知の獲得に至るまでのプロセスにあるのと同様にこのマンダラは人間の意識のまとめを行っている。すなわち、生は自己発展の運動を繰り返し、意識の黎明からやがて信仰を伴った聖なる真理を獲得する。
そうすると、イエスの生である福音書の内容はキリスト像の中に入って全く隠れてしまっているのかと言うとそうではなく、実は外に出ている六つの図を今度は別の仕方で見ることによって、その根本原理は外化されているのである。しかしながらキリストの顔のほう、マンダラの中心には比喩的な神の物語の全体は、精神の内容として、ここでは説明されないままにずっしりとつまっていることにはなる。そこで外に出ている六つの図は、意識の諸領域を表しながら生の破壊と統合を上下動によって示すことで生の運動の構造を表現したものである。おそらくクラウス自身、永年月繰り返し一つの全体的イメージに依拠してきたため、そのようなことを表した代表的な図は相当に整理されたものとして、精神の概念を表しているのである。意識の運動の過程を構造的に示すことで、クラウスはこのマンダラの基本的意味を規定しているのである。
クラウスは生の分裂と統一の極を物語におけるイエスの死と生誕に見ている。この輪郭からはみ出す福音書の物語は復活物語だけである。それ以外はすべてキリストの顔の中へ入っているのである。それでは受難以後の復活物語はどこにおかれるべきなのだろうか? 実は復活こそはこのマンダラ全体を生の統合の概念として認める精神に顕現するところの理念としてのイエスである。つまりマンダラの図を通して背後に自己が見られるとき、そこに復活のキリストがいるのである。それで聖体拝受の修道士は福音書を媒介にして生の概念を復活のキリストとして認める自我イコール自己を示しているのでもある。
四つの図と二つの図に分けてみる見方は、左上から右下への形態がトンボ型、あるいはけん玉型などと名付けることが出来るかも知れない。この見方はこのマンダラの形而上学的性格を見事に表象しているが、静止的なのが欠点である。生の善悪への分裂と統一の自己運動と、意識の黎明から精神の覚知への過程の、精神の自己発展の運動についての表象は、それ自身極めて興味深く、示唆的ではあるが、一度そのからくりが分かると、そこで洞察はひとまず停止してしまう。いったんそれを了解すればこれで終わりである。クラウスはこのことのためにこのマンダラを作ったのではない。この角度から見る自己発展の運動は左上から右下へただ向かうだけで、静止的になものに過ぎないからである。そうではなく、生本来の動的な普遍性、生の自己運動と究極的には同一の原理に立つ、生そのものである神を観想するためにこのマンダラを作ったのである。
意識の自己発展の構造的図式はクラウスの考える意識の全体構造へのいわば呼び水である。全体として意識にそのような領域的秩序があることのそれぞれの領域についての対応関係を我々の心の中に形成しやすいようにもう一つの立体を作って、予めその一部を固定しているのである。
前述の意識の自己発展の原理は自己運動する組み合わせを支持する切り口である。この見方の方が外からは見えやすいので、まずこの切り口に沿ってこのマンダラを分割し、さらに全体的な自己運動が可能であるように見直すように促している。その場合、四つの図は既に自己運動の方向性が規定されているから、残りの二つについて全体的自己運動が成り立つように見ることなのである。そこで我々は生の自己運動の分裂の形式を残りの二つの図にも拡張できないかを考える。そうすると、創造から聖体拝受への流れは無知と本能の混沌から知と信による秩序の形成であるから、前者を受動的(消極的)悪、後者を能動的(積極的)善として特徴づけることができる。創造は上の図(ユダの裏切り)と、聖体拝受は下の図(受胎告知)へと関係づけられることになる。このようにすると、能動的悪(磔)と受動的善(誕生)に交叉して無知と本能、及び信意と知は受動的悪と能動的善を形成する。全体の関係が上下の善悪の極性に対してそれぞれ能動と受動に分かれた二つずつの生(善)、死(悪)の表現となる。そしてこのように六つの図を全体として生の自己運動に対応した意識における領域の特性を表現した図としてみることになる。これは平面上に変換した生命エネルギ−の自己周流の結節点のシンボリックな表現なのである。意識の自己発展のモデルによって規定された、二組の生と死への分裂の図と一組の意識の自己発展の平面図は、創造が無知と本能による受動的な悪となり、聖体拝受が信と知による能動的な善となるに及んで、平面全体を上下に運動する生の回流へと転換されるのである。
能動領域に男性、受動領域に女性、赤子、天使を配合したのが偶然ではなく、生の自己運動の構造に対応した象徴の元型的配列であることは陰陽のエネルギ−の対立を描いた道家の太極図を重ねることでよりはっきりと分かる。さらに驚くことには、ちょうど例外の、受動の領域の端にある神のはみ出した部分が太極図の下では能動の領域に属し、同様に聖体拝受の図に食い込んでいる太極図の受動領域を修道士はうまく避けて、受動のエネルギ−の中へ入らないようにしている。太極図は陰陽のエネルギ−の対立を描いているので、この偶然の一致の結果から見ると、クラウスも能動(陽)と受動(陰)の対立を、そのように見ていたのかも知れない。なお普通の太極図では陰が黒で、陽が白になるが、そうすると、この図柄全体の雰囲気からして似つかわしくないので、ここでは図柄を尊重して白黒を反転しておくことにした。
生が自己運動するとは生が衝動的に自律的運動をしているということである。衝動の構造を理解することが生を理解することである。生は自己発展の運動を繰り返すのであるから、その本質は内的な衝動の構造である。そこで衝動の構造を外化することが存在の統合を自覚的に促す。クラウスが外化した六つの絵はその衝動の構造を外化している。そしてこれに自己の内なる破壊と統合を一致することが出来ると、神の統合に参与する概念の対応が成立するため、自己とその延長上の生そのものを概念として了解することになる。意識と存在そのものが結合し、神の人間化、人間の神化が成立する。つまり、神と人との結合とは生の原理を人間性の特性としての意識の内容として了解することであり、マンダラの図の全体が生の構造の反映として了解されるとき、それを見るものと神の基本構造である生の原理が一致し、神と人間が結合すると言うことになる。言い換えると、マンダラに向かい合う精神がマンダラを媒介として生の原理を精神における破壊と統合の究極的関係として想起することが実質的に神と人間の一致につながるのである。