クラウスのマンダラ

 

 

 

 

 

クラウスのマンダラについて

 

 

はじめに   

          

   このページは私の宗教哲学的な面を表現しています。もともとこれはエッセイのページの下の方でリンクしてあったのですが、知り合いの中野君がこのページの中程に私が注文したアニメーションを二つ作ってくれて、なかなかよくできており、見て戴かないともったいないのでホームページからもクリックできるようにしました。

   これを書くきっかけになったのは、「父性の復権」というベストセラーも書いた東京女子大の哲学科の教授、ユングの研究家で知られている林道義先生のところで発行しているラピスという機関誌の98年の暮れの号に、このマンダラの写真が貼り付けてあったからです。その写真をスキャナーで撮ったのがここにあるマンダラ図です。   

   私はいわゆる普通のクリスチャンではなく、聖書も福音書以外は余り興味がありません。比喩体系のレベルでの福音書の真正性を認めている人間です。神もキリストもそれらの隠喩の示す生の原理として存在し、仏教、ヒンズー教、あるいは老荘思想の優れた宗教経典はこの同じ究極的リアリティーに異なる表現を与えているものと見なしています。正確さの度合い、表現の優劣で、私は福音書を第一にお勧めしますが、文字通りに読んでは間違えます。

   スイスのクラウス関連のサイトの中に、このマンダラについての解説が載っています。スイス系のドイツ語で読みづらいのですが、よく見ると全体を有機的に解釈できていません。金の矢印が外に向かったり、内に向かったりで、まだ手探りの状態です。(ドイツ語の出来る人はhttp://www.ethischeberatung.ch/rad1.htmへ行ってみてください。)それなので、おそらく私のこのページは世界でも希有なこのマンダラの全貌をつかまえたサイトだと思われます。しかし、たまたま私が発見した光の分裂と統一による生成のロゴスの構造モデルに、クラウスの生の構造的理解が一致していたので幸いにもこの解読不能なマンダラの基本的なからくりを見つけることが出来たのだと思います。実は、このマンダラ図のディーテイルには私のような観点から把握するのをきっかけとして、さらにその先に寓意が隠れています。その詳細は私にも分からないところがたくさんありますので、皆さんで解いて下さい。

   

 

1総論

     

      マンダラは元来自己の精神を観想するための瞑想の道具である。通称クラウスと呼ばれ15世紀後半のスイスに生きたフリューエのニコラウスのマンダラは意識の構造を還元したマンダラとして極めて優れたものである。意識の諸領域に分けられたマンダラの各図に沿って、生の自己運動の原理に合わせて、意識の全領域をゆっくりと運動しながら観想することで、自己と一体となるという方法が採られている。マンダラは使い方を心得れば、精神の奥深くへ参入し、自己の本性を知る契機となる。このマンダラの持つ無限の可能性を引き出せるようにその本来意味するところを出来る限り考察してみよう。

   東洋のマンダラの完成体、すなわち真言密教における胎蔵界マンダラや金剛界マンダラは、複雑に発展し、それらの含んでいるものはまことに奥深いものがあるが、それぞれの象意は位置的には固定されており、静的である。しかも代表的なマンダラを二つに分けて観想するようになっている。そのためそれらは意識の諸領域を生の存在構造に即して写像したものとは言えない。それに対してクラウスのマンダラは生の自己運動に合わせた動的なマンダラである。相対的にはクラウスのマンダラの方が単純に見えるが、生の運動の構造を永遠に向かって同型的に貫いている点で、それは具体的普遍であり、その延長上に神の観想への可能性を開いている。意識の全領域を生の否定と肯定、能動と受動の異なる要素に分けてそれぞれの意識の領域を代表させる像を我々が生の像を現象的身体を媒介として像化する必然性に合わせて自然に配置している。それらの各図の特性を生の衝動の構造との関係において予め頭に入れておき、上下にフィードバックを繰り返す生の自己運動に合わせて観想することで自己が自己自身を見入るように構想されている。

   このマンダラには中心から出る三本の矢と、中心に入る三本の矢によって方向付けがされており、マンダラを観想するときに、それらに従うことによって、意識の奥深くへ入っていけるような工夫が成されている。このマンダラは動的なマンダラであり、生の自己運動に合わせながら意識の領域を深く理解しつつ想念を回すことで、無意識の深みへ入り込み、神の観想へと近づいていくことを意図しているのである。

   クラウスのマンダラは生の自己運動に合わせて深層意識へ参入する観想の意図と同時に、もう一つ重要な思想が表出されている。意識の発展過程を形而上学的視点から、客観的に外化して精神とは何かをまとめている。生は自己運動を繰り返しつつ意識の黎明から信仰によって絶対者を了解する自己へと歴史的に発展する。このようなことをマンダラの全図式を使って巧みに表現している。(これは絶対知へと至るフィヒテ以降のドイツ観念論の基本的モチーフと同一である。)そうであるならば絶対者の観想もまた、そのままこのマンダラを通してやろうというのがクラウスの究極的な意図であろう。つまりこのマンダラは個性化過程(ユング)のまとめと自己運動を媒介とした絶対者の観想という二重の動機によって成立しているのである。そこでまずはより簡単で目につきやすい意識の自己発展の運動から見てみよう。

 

2人間性のまとめとしての意識の自己発展の運動

  

       このマンダラの周辺にある六つの図を見ていてすぐに気がつくのは、上と右上が受難物語の連続した図であること、下と左下が誕生物語の連続した図であることである。これらは意味上の近接関係にあり、意識の領域においても隣り合っている。当然上と右上が死と悪の領域となり、下と左下が生と善の領域を暗示する。このような分離をさせたのは、我々の意識の表層意識あるいは自意識の側が、我々の身体から見て不安定であり、深層意識、あるいは無意識の側が安定しているから、それらを身体感覚から見て、上を不安定、下を安定と分割し、空間に秩序を与えたのである。表層意識に近いところでは意識は流れが悪く、心はもつれやすくなる。こうして、上は死と悪の領域とされる。それに対して下の方が安定的で、心はなめらかに流動する。生の自然な発展が促される領域は生のエネルギ−も安定し、また良心の声に素直に応じて道徳的に自己実現しうると言う意味でも善であるから下を生と善の領域と見なしているのである。

   こうして福音書について連続した二つずつの図と、創造と聖体拝受というそれぞれ孤立した図に分けることが出来る。前者は意識の自己運動、後者は後述するように意識の歴史的過程を表現している。これらを合わせて意識の運動の過程を看取することが出来る。さらにこれらの六つの図はそれぞれある意味で意識の臨海点を表示しているのである。すなわち意識の表層(悪)と深層(善)、意識の始めと現在としての終わりである。 

    さて福音書に依拠した二つずつの組によって生と死を表現した図をマンダラ全体に即してもう少し詳しく見てみよう。福音書はイエス・キリストの神話であるが、その生の始まりと死の終焉とを縁取って、外に放射している。キリストから出る放射線とキリストに入る放射線に沿って、一方は裏切りを契機とした十字架上の刑死、他方は無垢なるイエスの誕生からさらに時間を遡る受胎告知である。これらにより、その中にイエスの生があるイエスの生と死の全体の輪郭を縁取っている。同時にその都度の生の自己運動として、その極性としての生死を縁取っている。生が自己分裂するとき、裏切り(悪)と無垢(善)の両方の契機が現れるからである。この四つの図で、プシュケーの自己発展の運動における分裂と統一の極を表現していることになる。

 

   そこで残された二つの図における矢印の左上から右下への関係は個体における歴史性を表現している。左上は精神の創造の場面、そこは未分化な世界である。既にアウグスチヌスの創世記解釈は精神の創成という比喩的解釈であるが、クラウスもまた、それを参照したか否かに関わらず、このような考え方に立っている。意識の生成の無知と混屯から徐々に発達した精神はやがて福音書に邂逅する。それを媒介とすることで、精神を理解した修道者は聖体を拝受する。左上から右下への間に福音書の神の子の物語を挟むことで、人間の生は混屯から秩序へ、本能的衝動から自己を知る知性へと統合される。

     つまりここには生の自己発展の運動の概念と、それを歴史的に貫く個性化過程の概念の二つが、全体として精神の概念として示されているのである。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルのドイツ観念論のモチーフが生の自己運動による、意識の始源から絶対知の獲得に至るまでのプロセスにあるのと同様にこのマンダラは人間の意識のまとめを行っている。すなわち、生は自己発展の運動を繰り返し、意識の黎明からやがて信仰を伴った聖なる真理を獲得する。

     そうすると、イエスの生である福音書の内容はキリスト像の中に入って全く隠れてしまっているのかと言うとそうではなく、実は外に出ている六つの図を今度は別の仕方で見ることによって、その根本原理は外化されているのである。しかしながらキリストの顔のほう、マンダラの中心には比喩的な神の物語の全体は、精神の内容として、ここでは説明されないままにずっしりとつまっていることにはなる。そこで外に出ている六つの図は、意識の諸領域を表しながら生の破壊と統合を上下動によって示すことで生の運動の構造を表現したものである。おそらくクラウス自身、永年月繰り返し一つの全体的イメージに依拠してきたため、そのようなことを表した代表的な図は相当に整理されたものとして、精神の概念を表しているのである。意識の運動の過程を構造的に示すことで、クラウスはこのマンダラの基本的意味を規定しているのである。  

     クラウスは生の分裂と統一の極を物語におけるイエスの死と生誕に見ている。この輪郭からはみ出す福音書の物語は復活物語だけである。それ以外はすべてキリストの顔の中へ入っているのである。それでは受難以後の復活物語はどこにおかれるべきなのだろうか? 実は復活こそはこのマンダラ全体を生の統合の概念として認める精神に顕現するところの理念としてのイエスである。つまりマンダラの図を通して背後に自己が見られるとき、そこに復活のキリストがいるのである。それで聖体拝受の修道士は福音書を媒介にして生の概念を復活のキリストとして認める自我イコール自己を示しているのでもある。

    四つの図と二つの図に分けてみる見方は、左上から右下への形態がトンボ型、あるいはけん玉型などと名付けることが出来るかも知れない。この見方はこのマンダラの形而上学的性格を見事に表象しているが、静止的なのが欠点である。生の善悪への分裂と統一の自己運動と、意識の黎明から精神の覚知への過程の、精神の自己発展の運動についての表象は、それ自身極めて興味深く、示唆的ではあるが、一度そのからくりが分かると、そこで洞察はひとまず停止してしまう。いったんそれを了解すればこれで終わりである。クラウスはこのことのためにこのマンダラを作ったのではない。この角度から見る自己発展の運動は左上から右下へただ向かうだけで、静止的になものに過ぎないからである。そうではなく、生本来の動的な普遍性、生の自己運動と究極的には同一の原理に立つ、生そのものである神を観想するためにこのマンダラを作ったのである。

    意識の自己発展の構造的図式はクラウスの考える意識の全体構造へのいわば呼び水である。全体として意識にそのような領域的秩序があることのそれぞれの領域についての対応関係を我々の心の中に形成しやすいようにもう一つの立体を作って、予めその一部を固定しているのである。

 

3 自己運動する自己の観想

  

   前述の意識の自己発展の原理は自己運動する組み合わせを支持する切り口である。この見方の方が外からは見えやすいので、まずこの切り口に沿ってこのマンダラを分割し、さらに全体的な自己運動が可能であるように見直すように促している。その場合、四つの図は既に自己運動の方向性が規定されているから、残りの二つについて全体的自己運動が成り立つように見ることなのである。そこで我々は生の自己運動の分裂の形式を残りの二つの図にも拡張できないかを考える。そうすると、創造から聖体拝受への流れは無知と本能の混沌から知と信による秩序の形成であるから、前者を受動的(消極的)悪、後者を能動的(積極的)善として特徴づけることができる。創造は上の図(ユダの裏切り)と、聖体拝受は下の図(受胎告知)へと関係づけられることになる。このようにすると、能動的悪(磔)と受動的善(誕生)に交叉して無知と本能、及び信意と知は受動的悪と能動的善を形成する。全体の関係が上下の善悪の極性に対してそれぞれ能動と受動に分かれた二つずつの生(善)、死(悪)の表現となる。そしてこのように六つの図を全体として生の自己運動に対応した意識における領域の特性を表現した図としてみることになる。これは平面上に変換した生命エネルギ−の自己周流の結節点のシンボリックな表現なのである。意識の自己発展のモデルによって規定された、二組の生と死への分裂の図と一組の意識の自己発展の平面図は、創造が無知と本能による受動的な悪となり、聖体拝受が信と知による能動的な善となるに及んで、平面全体を上下に運動する生の回流へと転換されるのである。

クラウスの図の配置から見ると上と右は能動で、下と左が受動である。この事実を人物の配合によっても表現している。能動の部分の三つの図には男性だけで、受動の部分の図には女性と子供、天使が入っている。例外は能動との縁に接するところに描かれた創造の図の中の神である。神は元来中性なのかも知れないが、図柄としては男性として描かれている。そこで神は受動の領域の中で一番能動に近いところに位置している。そのバランスの崩れを補うためか、これに呼応するかのように、聖体拝受の修道士の腰のすぐ後ろに、この図では見にくいが、未だ子供の修道士が職杖を立てて描かれている。

   能動領域に男性、受動領域に女性、赤子、天使を配合したのが偶然ではなく、生の自己運動の構造に対応した象徴の元型的配列であることは陰陽のエネルギ−の対立を描いた道家の太極図を重ねることでよりはっきりと分かる。さらに驚くことには、ちょうど例外の、受動の領域の端にある神のはみ出した部分が太極図の下では能動の領域に属し、同様に聖体拝受の図に食い込んでいる太極図の受動領域を修道士はうまく避けて、受動のエネルギ−の中へ入らないようにしている。太極図は陰陽のエネルギ−の対立を描いているので、この偶然の一致の結果から見ると、クラウスも能動(陽)と受動(陰)の対立を、そのように見ていたのかも知れない。なお普通の太極図では陰が黒で、陽が白になるが、そうすると、この図柄全体の雰囲気からして似つかわしくないので、ここでは図柄を尊重して白黒を反転しておくことにした。

 

  生が自己運動するとは生が衝動的に自律的運動をしているということである。衝動の構造を理解することが生を理解することである。生は自己発展の運動を繰り返すのであるから、その本質は内的な衝動の構造である。そこで衝動の構造を外化することが存在の統合を自覚的に促す。クラウスが外化した六つの絵はその衝動の構造を外化している。そしてこれに自己の内なる破壊と統合を一致することが出来ると、神の統合に参与する概念の対応が成立するため、自己とその延長上の生そのものを概念として了解することになる。意識と存在そのものが結合し、神の人間化、人間の神化が成立する。つまり、神と人との結合とは生の原理を人間性の特性としての意識の内容として了解することであり、マンダラの図の全体が生の構造の反映として了解されるとき、それを見るものと神の基本構造である生の原理が一致し、神と人間が結合すると言うことになる。言い換えると、マンダラに向かい合う精神がマンダラを媒介として生の原理を精神における破壊と統合の究極的関係として想起することが実質的に神と人間の一致につながるのである。

 

     キリストの十字架は、実際には自己拡張しようとする強欲の結果として自我が刑罰に遭うことの反映である。生はその脅威に留まることは出来ないので、それを無意識受動の従順性の方へ自然に転換して、刑罰をふりほどくことになるのである。死から生への移りゆきは刑死から誕生への生死の自己運動の主軸と、創造から聖体拝受への副軸に分かれ、それぞれ電磁場を相殺する形で運動していく。受動的な悪としての本能的衝動は快楽の追求、気のゆるみであり、それを意志的な信念と知的な秩序志向とも言うべき生産的衝動が能動的に転換して調和をとるのである。そして誕生から受胎告知へ、聖体拝受から受胎告知(感謝の喜び)へと統一される。そしてこの最も自我の水位の低い位置から再び、生の運動はその自己拡張の頂点へと上昇し、分裂と統一を繰り返す。上方で分裂した異なった衝動を統合へと転換させる誘因は良心の働きである。それは生に備わった道徳衝動と言い換えることもできる。生が自律的であるため、極致へ至ると自然にフィードバックの作用が道徳的衝動ないし良心として発動される。

    このような生の自己運動の意識における反映を、既に自己了解されている生死・愛憎のような根本的な生における対立関係を衝動の構造との関係で意味の連関を咬み併せながら了解していくことで、深くゆっくりと自己運動をさせていくと、自己が自己を見るという事態が成立してくるのである。そして意識の側は自律的に備わってはいるものの往々にして弱められやすい道徳的衝動を励まして、強めるような操作をしてやればよいのである。

    プシュケー全体の観想をする場合、意識の全領域を鳥瞰しながら、生の運動に合わせて、くまなくそれぞれの領域の像の背後に入ることが必要である。なぜなら、精神自体は決して固定されたものではなく、基本的に自己発展の運動をしているものだからである。このような動的なマンダラであるからこそ、諸表象を伴った具体的普遍として生の根本運動を我々に洞察させ、生の統合と破壊を衝動の構造として把握させ、その統合の相へ参与することを可能にする。さらに根本的なことはここには意識の全領域を包含するイメージの重ね合わせが存在していることである。このイメージの重ね合わせと生の運動が共鳴すると、意識は普遍的な生の根本構造に対応したイメージの運動の中へ参入し、深層の集合的無意識へと引っ張られる。その極致が神の観想である。そのようなことが可能であるのは、生の自己運動を写像したマンダラは真無限として同型性を保っているからである。

      このようにして観想者は自律的な生の運動に合わせながらマンダラの個々の絵を矢印に即しつつ、意識の領域内容と見立てて分裂と統一の往復運動をさせることなのである。意識の表層と深層の極の間を能動と受動に分かれて往復運動を繰り返しているのが生としての精神の本能的現実であろう。意識の自己運動をその全領域でその個々の領域を代表させる像の間を能動と受動に交錯させながら往復させることで、プシュケーの自己運動を模倣することになるのである。

    生の自己運動は単純な形式として、意識と無意識、あるいは表層意識と深層意識の極性の間を上下動する。究極者の運動も基本的には分散と集中を繰り返しながら前進する、生の目的論的運動をしていることが仮定される。それでいて全体が制御された状態にある。この世界が全体として秩序の下にあるのがその反映である。だから生の根源は光り輝くのである。ところが人間の場合には、悪の極致へ向かいきってから善の極致へ向かうことを繰り返す内、次第に表層意識に方へ引っ張られる可能性がある。この弊害を矯正するのが宗教的な態度と自覚である。このマンダラは当然のことながら善への思いを集中することによって精神を善に向けて制御することをも促している。

 

4神の観想

  

      マンダラの使用により究極的には神を観想すると言っても、それはこれらの具象的な図の背後の形相的な自己運動の本質のさらにその彼方を見ることになる。最後はマンダラの構造に則しつつマンダラから離脱して、無意識の底へ参入し、さらにその彼方へと進むのでなければならない。いまこのコンテクストを敢えて究明してみよう。まずは出発の準備に、光とマンダラを関係づけなければならない。

    上が悪で、下が善ということは、上に生の破壊を置き、下の方に統合点をおくということである。上が生の周辺になり、その反対に下が生の中心になる。そこで生とはもともとは光のエネルギ−の受容体であるから、このマンダラの背後に光とそれが分裂したときの光のスペクトルを想定すると、その分裂した状態は、右上に青、左上に赤、右下に緑、左下に黄色が配列した状態となる。そして統一した状態がそれらのスペクトルへと分裂した色が下の黄色と緑の中間へ向かって行き、それから中心へ戻って光そのものとなる状態である。スペクトルが真下の黄緑の方へ向かって統一されるに及んで光そのものとなっていき、生の中心に吸収される。そして調整期のエネルギ−の充電を経て再びその光は生の周辺へと分裂すると考えることが出来るのである。ところで、生の周辺へ向かうということは生から物質との境界へ向かって動くことで、生命エネルギ−の動きは鈍くなり、スペクトルの質が色光から色料へと変換し、丁度絵の具をかき混ぜると黒くなるのと同じ、明度が下がって色彩学で言う減法混色の現象が起こる。それに対し、生の中心では純粋な色光で明度は上がるので、加法混色の現象となり、光そのものとなる。丁度、独楽の上部の平面を虹色に配分して回転させると白くなるのと同じ原理である。それで、意識の真上の部分は黒に近く、真下はごく薄い黄緑から白へとグラデーションがかかっていく。こういったことをも加味して六つの具象的な図の背後に光の自己分裂の運動が形相的に存在すると仮定しておこう。こうしておけば、マンダラの各図は光のスペクトルを媒介として、すぐ後で述べる真・善・美の根本的なイデア同士の中へ同型的に関係づけることが出来る。

    ある程度以上観想が精神の底へと近づいていくと、実際には精神そのものが活性化現象を起こす。チャクラが開いた状態になる現象である。ちょうどはじめは酒が飲めずにアルコールを受け付けない人が、ちびちびと毎日飲んでいる内に体内のアルコールを処理する酵素が活性化して飲めるようになるのと同じである。観想の訓練を続けていると手前の現象界に留まっていた精神が意識の奥へ入りやすくなる。つまり自己を観察する自己自身と共鳴しだして、相対から絶対へと移りやすくなる。意識の連想の世界が相対的なこの世界に留まっていたのが、深層の絶対界へと分け入って、善悪の根本的差異についての連想へと進んでいく。やがて意識の背後に徐々に大きな生命力を感じるようになる。

     無意識の一番奥は、生命エネルギ−の自己実現の潜在能力が存在する場である。生が目的論的に価値や意味を目指して自己形成する根本的な能力の場である。精神としての生が自己を分裂し統一することによって、その都度、理性能力を発揮する場である。それは基本的な能力で、生を現成化しようとする生成のロゴスの場である。当然それは光のエネルギ−のスペクトルに対応している。光をいったん分裂してからまとめることで生は実現することになっているからである。生を実現しようとする異なった能力の場である。それを間近に見えるようになると、その生命力の本体が根源的な三つの能力によって成り立っているように直観される。それらの能力をまとめてドイツ観念論は理性と呼んだが、ユングは自己と呼んだ。我々はその三つの異なる能力を、それぞれの特性に応じて知恵と力と愛と呼んでおこう。それらは異なる特性を協調させつつ生を善の実現に向けて形成しようとする基本的能力である。それらは理性となって変換された場合、直ちに理論理性、実践理性、美的理性となる。この場は生の衝動の変化による、表層意識と深層意識を往復する揺れの影響を受けないので、生死善悪への分裂が無く、意識からは可能態で在りつつ、その場では常に現実態である。自由自在、融通無碍の世界である。仏教で言う事理無碍法界の世界である。

   クラウスのマンダラの背後に、生の自己運動の統合体に合体し、無意識の底に融通無碍に輝く、知恵と力と愛の融合体を観察することが出来れば、ほぼ神の観想に近づいている。何故ならば、知恵と力と愛は、人間の潜在能力としての可能性から離脱して、同一性を保ちつつ、それぞれ英知界の方にあるイデアのアクチャリティーにつながっていく。こうして光の根本要素は人間を超越し、真・善・美のイデアそのものへと還元されるから、知恵は真そのもの、力は善そのもの、愛は美そのものに変容する。勿論これらは光の青・黄・赤の価値的な現れである。神は本質的なものであると主張するトマスの言葉に従えば、神ご自身も結局はイデア的なものに還元されるが、それは生きたロゴスとして働いているものであるから、究極者は真・善・美の雄大に、光り輝く融合体であり、そのアクチャリティーである。その明晰と、その純粋意志と、その調和的志向とは、自由自在であり、自己に自足しつつ、途方もなく幸福に充実している。しかも激しく純粋に善の実現を追求する。神と人間との間は光としての同一性に基づいて両者はつながっているので、その基本線はこのように理解することができる。しかしながら、その内部の内容そのものは人間がそれを直視することは叶わぬ存在である。プラトンの洞窟を出た囚人が外の太陽の光を見て目を伏せたように。また生の法則に基づいて衝動の上下動を繰り返す人間は善悪を往復せざるを得ず、その窮状が背後から分かる神は、その窮状を根本的に排除する統合への構造的規定を神話の形で送り出したのである。

    通常の意識からの神の観想は意識の領域を了解しつつ、深層意識の方向への志向性を受容して、統合存在としての自己を形成するように心がけていれば神とつながってくる。このマンダラをそのために活用し、神と一体化し神を愛する能力が高まれば、クラウスもこの深遠なマンダラを作り、後世に残した甲斐があるであろう。

    ところで今述べたプシュケーの最深部までの行程はおそらく人生の特定の時期にしか起こらない。精神の休火山が活火山になりうる様なことは、よほど激しく真理を渇望して、必要としている時期でない限りはここまでの出来事は起こりそうもないからである。

    なおここでは詳論することは出来ないが、ユングの元型も光の形相的な分裂と統一、質料的な分解と統合という二重の契機に基づいた、生の目的論的運動の構造に位置づけることが出来れば、自己元型は構造化され、他の元型とのコンテクストも明瞭となり、理論的に安定することになる。ユングの場合、トピックごとに元型に現象学的還元を施したため、全体的元型である自己元型に生成のロゴスを明確に切り分けることが出来なかった。これを生の構造として位置づけるには、意識に展開されている、衝動の構造に対応する諸領域の特性を見抜き、意識の全領域を一挙に還元して、生の根本的運動の原理を顕わにすることである。そしてその生の分裂と統一が光の分裂と統一と同じであることを見通すこと(想起すること)で解決される。

 

5 受胎告知とユダの裏切り

 

     このマンダラの最も重要で基本的な視点は表層意識と深層意識の間を往復する生の運動を反映した二つの図、受胎告知とユダの裏切りの対立的な意味の関係であろう。それは生と死、善と悪、統合と破壊の極性についてのクラウスの理解を代弁するものである。最後にこの問題を扱うことにする。

     クラウスによると、受胎告知が意識の水位の最も低い領域である。そこは思いも寄らぬ、幸運に恵まれた喜びがあり、感謝と満足(無欲)の世界が展開される。ルカによる福音書のマリアの讃歌は、その様な心の位置からよく見えることを証しているのである。すなわち、高ぶったもの、威張った王や、欲張った金持ちは神から退けられ、低いもの、貧しいもの、飢えているものが招かれる様相がそこからはよく見えるのである。受胎告知とは眺めのよい場所なのだ。最も低いところからすべてが見渡せる。下にいるからその差異によって、上の性質がよく見えるのである。ルカによる福音書第一章のマリアの讃歌を引用する。

1:46 そこで、マリアは言った。47 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、49 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。54 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

     受胎告知は感謝の喜びであり、無欲と満足の表現である。ユダの裏切りは強欲から来る不平不満に起因する。生は調整期を過ぎると当然次のステップへ移ることを促される。そこで順調に行為が能力の蓄積として満たされればいいが、道徳的向上に即して行われない場合、そこに不満が残る。それが人間を不安定にする。人間は常に行為を整えて前向きにしている方が、自己拡張の衝動をエネルゲイアに向けて消却してしまうので楽になる。つまりその都度、行為によって本来の願望を充足させている方が不満と責めを負わないで済むのである。しかし人間の限界内での行為に対して、欲張ってはならない。それに満足しつつ進むことで安定するのである。

     感謝の喜びは現象的な変化に影響されない形相的なものになっている方が望ましい。それ自身が外界の条件に依存しないで成立している恒久的な満足を身に付けることである。そうでないと人間の世界は何が起こるか分からないから、いつ不満のまっただ中へ投げ出されることになるか分からないからである。感謝をどこに定位すべきであろうか?受胎告知に従うならば、主が私を憐れんで、キリストを受胎させた(統合存在への洞察が入った)というところにである。このキリスト(統合点に起因する知恵、力、愛)はいつでも誕生可能性の中におかれているからである。光を見たもの、あるいはそれを認知するものは、それ自身の持つ自律的作用で、既に誕生しつつあり、また必ず大きく誕生する方向に向かって進んでいるという、その事への感謝である。しかしこのように狭く考えなくても、 霊魂は既にエネルゲイアであるということを認めるならば、実は生きていること自体が、統合されてあることであるから、与えられた環境に何らかの意味や価値を見出すことが出来るならば、そこからあらゆることへ感謝を延長することが出来る。

     満足と不満足の極性はエネルギ−の上下動に伴う、天国と地獄の違いである。従って、神話や説話の題材とならないはずはない。満足と不満の極性に基づいて受胎告知の喜びからイエスを金で売ったユダの裏切りに一変するエネルギ−の上昇に伴う心の変化によく似た説話がある。日本民話の遠野物語の中にあるヒバリと太陽の説話である。冬の寒い日に太陽が照り輝くと、ヒバリは「オテントーサマ、アリガテー、オテントーサマ、アリガテー」といいながら天へ舞い上がっていき、やがて太陽のそばまで行くと、「オテントーサマ金貸してくれ」と言ったそうである。すると太陽が「金なんか無い」と断ったら、ヒバリは「オテントーサマ、クソケー、 オテントーサマ、クソケー」と言いながら真っ逆様に落ちていったそうである。このような意識の水位の変化を表現した説話は探せばいくらでもあるのであろう。ヨブ記におけるヨブの場合は変則的ではあるがこの種のものに属する。巻頭で水位はどんどん上昇して、ヨブは不満の極に入れられる。 そのてっぺんで友人達と延々と意見を交換した後、最後に風の中から姿を現した神の発言によってヨブが不満を取り下げて、悔い改めたとき、急転直下、水位は下がり、元の世界に戻るという形である。

     老子第三十三章に「足るを知る者は富む」とあり、同三十九章には「貴きは賤しきを以て本と為し、高きは低きを以て基と為す。」とある。また山上の垂訓のイエスの第一声は「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである。」であった。不満(ユダの裏切り)と満足(受胎告知)を象徴する絵を意識の両極においたクラウスの人間理解はまことに当を得たものといわなければならない。

     クラウスのマンダラは生の運動の論理を福音書の四つのエピソードと天地創造、聖体拝受によって比喩的に描いている。それによって我々の精神が破壊を減らし、統合を充実させるように促しているのである。このマンダラの真意を理解し、このような生命エネルギ−の周流を自己のうちに見出して、自我と自己の一致を心がけて行くならば、精神の根本的変換が起こってくるのである。

 

 

スイスにあるブルーダー(兄弟)クラウスのサイトhttp://www.bruderklaus.ch/