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哲学の部屋
哲学、特に形而上学というのはなかなか深遠な学問で、これがスッキリと分かるようになるには素質のある人でもなかなか難しい。私の場合、ある時期にスケールの大きな神秘体験を経由したため、それまでの準備とかみ合って、たまたま分かるようになってしまった。それなので、ここへクリックして入ってきてくれた人たちには、真理の意味するところを、出来るだけ分かりやすく語ってみようと思う。
哲学には深いところで同意があり、古典になりうる哲学者には一部の例外を除いて人間性に対する視座に共通点がある。ところが、これが余り表立っては出ていないため、一見するとバラバラな印象を与えるのである。 古代ギリシアのプラトン、アリストテレス、中世のアウグスチヌス、トマス・アクィナス、17世紀のライプニッツ、スピノザ、ドイツ観念論のカント、ヘーゲル、そして20世紀のハイデッガー、ヤスパース、現在も存命中のガダマー、リクールなどの哲学者達の根源的な人間性理解を生の原理あるいは生の概念というような視点から捉えてみよう。 このような作業は形而上学的営みなので、抽象的になりやすく、つかみ所がなくなる恐れがある。そこで私が独自に考案した図式と啓示の書と言われる福音書や老子が持っている神話的な譬えによる人間性理解とを照らし合わせて、より具体的に分かりやすくしてしてみよう。 さらに具体的にするために、ユング心理学や記号論、隠喩の解釈学なども援用することにする。 6/3, 2001
古典が残るのは人生経験を積むに連れ、我々自らの生と一致する意味の確認が、その古典から我々の中に入ってくるからである。そこに真実が書かれていれば、我々の経験を還元して出来てくる半ば無自覚に築かれた意味の体系に合致し、その重要な一部を目覚めさせてくれるからである。逆に言えば、古典には真理が含まれており、我々は直観的にその匂いを嗅ぎつけるのである。
一方で我々は生活の中で自らの生を経験し、善悪の根源的差異などを徐々に知り分け、生の意味を無意識のうちに構造的に形成する。それは実は生の原初的成長運動の周りに絡みついていくものなのである。そしてこのフィードバックする成長運動は分裂と統一を繰り返しながらも同型性を保つ。これに単純なイメージを投入するならば、光がスペクトルへ分裂し、光そのものへと統一する、そのような根源的プロセスである。生の成長運動に単純な光の分裂と統一を一致させるのが私のやり方であり、後述するようにそのようにすることによって非常に多くの重要な形而上学的命題との連結関係を調和的に形成することが出来る。 光・生・精神・理性・神の同型性のもとに形而上学は考えられている。そしてこの同型性の本質をプラトンの善のイデアやアリストテレスの現実態によってさしあたり代表することが出来る。(これらの概念についてはまた後で述べる。) こういったものを把握するのに意識の極性を利用する。生は表層の自意識へ向かって分裂し、深層の無意識へ向かって統一する。そのような運動の場での根源的な衝動のあり方を自覚的に把握することによって、人間は統合力をつけ、生がよく機能することを促進するようになる。そのような真理の体現というものに向かっていくことがなければ哲学をやる意味は無いと言ってもよい。 全体として善の方向、道徳性に基づいた自由の獲得の方向へ、全体の生がよく機能する方向へと我々は向かっている。個人の生が生の真理を意識化することによって、まず我々自身をよく制御し、よく機能するようなあり方へと我々自身を変換する。それと共に現実に起こる政治や経済、科学技術の発展の中で世界が調和的に機能していくような個別の能力をも統合存在の自覚のもとに磨いて行かねばならない。 7/9
古代ギリシア哲学は素朴ではあるが、哲学の基本が入っている。プラトンのイデアをアリストテレスは質料に対する形相とした。このレベルで考えるのは普通の哲学であるが、形而上学のレベルになるともう少しきつい。プラトンの善のイデアと、アリストテレスの現実態との同一性を認知するのが形而上学のレベルである。善のイデアとはあらゆるイデアの総合である。善のイデアについての言及は「国家」第7巻の洞窟の比喩にある。洞窟は我々の心の比喩である。そこでは善のイデアは、洞窟の外にある真実在の世界の、いわば内なる太陽であり、光の原因であり、神的実在である。 これに対して、アリストテレスの現実態とは、可能態との対比で捉えられる。これは元々は生の自己運動を把握したものである。生が自らの可能性を自己実現し、全体を有機的に統合して、その目的を遂げつつある状態、それが現実態である。そのとき生はよく機能して自由な状態にある。そこにおいてはその都度、生自身の内在的目的の有機的調和が達成されており、善が達成されていることになる。 このように善のイデアと現実態が一つに貫通されて認知できるようになってくると哲学は本物になってくる。 生は可能態から現実態に移行することをその都度繰り返しつつ、全体として現実態の状態が維持できるようになっていることを希求するのである。 ドイツ観念論のヘーゲルの弁証法も、即自、対自、即且対自と認識の進展が行われる。これも実は可能態から現実態への移行の焼き直しである。ヘーゲルの場合は直接的にはフィヒテの弁証法の影響を受けているが、実際上はアリストテレスの枠組みの中にはまっているのである。 8/6 善のイデアも現実態もそれ自体としては容れ物のようなもので無内容に近い。これら、生の全体の統合を異なった角度から指示するものに対して、優れた形而上学者はその究極の姿をあるがままにきれいに切り分けて、普遍的なものとして指し示すことが出来る。そしてその基礎のもとに自らの体系を樹立することになる。
もしすべてを統一するような理念があり、それがプラトンの言うような善のイデアであるならば我々にとっては善の根源的な切り分けが必要になる。それを光の分裂と統一に基づいた生の成長運動の根源的な切り分けとして表現したのが私の作成した光の範型であり、キリストの範型である。問題はそれが自分の生の事柄として自分自身の生を外化する形で了解するようになることが出来るかどうかである。しかしながら了解したときにはなるほどそれが真理であると納得することが出来る。なぜならばそれは普遍的な生の自己運動の根本的な形式のもとに善悪を中心とした意味の連関を生の衝動の構造と共に統一的に把握することになるからである。素直にしたがってくれば理解は達成しやすくなるが、ひねくれて批判的になると理解からははるかに遠のく。
最近の思索についてはhttp://d.hatena.ne.jp/mk6/ を参考にしてください。ここで尻切れトンボになってしまった「光の範型」の図式があります。 もっと大きいのが必要であれば雑誌トリニティーに載せたものをダウンロードすることが出来ます。(TRINITY 2005Winter から、真理の図式:A4版「光の範型」がPDFにダウンロードでき ます。) 8/07 2006
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