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今日のクライアント23月20日 恋愛の下手な男性
東北の方から30代後半の面白い男性が来た。この人は会社を経営している。手を見るとマスカケ線で、感情線と頭脳線がつながった形である。マスカケ線の人たちは男女を問わず恋愛の下手な人たちが多い。なぜ下手かというと、マスカケ線の人たちは好きだと好きになりすぎるし、嫌いだと嫌いになりすぎる。好き嫌いが激しいのである。そうするとどういうことが起こるか。いったん好きになるとドツボにはまってしつこいくらいになり、追いかけるようになる。その反対に冷めると醒めすぎる。丁度いいところがない。この人の場合、本能的衝動に引っ張られて、好きになって追いかけるという面(雌性衝動)と、やたらに仕切りたくなって、威張って相手を拘束する(雄性衝動)面との二つがともに出てくるので、付き合っている方は辟易して、ついには終わりになるということになりやすい。不思議といつも長続きしないと本人は言うがルール違反をしているために壊れるのである。今回も20歳の女性と付き合って、結局振られてしまった。恋愛下手の人たちは、好きになって追いかける(雌性衝動)、接近してから威張って一言多くなる(雄性衝動)を知らずに繰り返す。この反対にすればうまく行くようになる。少し踏ん張って、追いかけないでサラサラッとしている(意志)、威張らないで相手を尊敬する(道徳衝動)。このように変えていくと、徐々に恋愛はうまく行くようになる。マスカケ線でなくても恋愛が上手下手は同じ原理に基づいている。マスカケ線の人ははっきり出やすいということである。
3月13日 自分に見切りをつけてはいけない
恐ろしく多くの人たちが自分の能力を信頼できずに生きるためのつまらない仕事に従事している。日本人は横並びで、まわりの人や親に言われたりして、個性のない、会社勤めのOLになる傾向が強い。それに対して、私の知っているかぎり、アメリカ人は自分に合ったことを選択するのに躊躇しない。自分の個性を生かして生きていこうとする気持ちが強い。私の所へ来る多くは、みんなが行く方へなびいて行って、生き甲斐が感じられなくて、行き詰まっていく。
やりたいことをする勇気も必要である。
3月6日 社内いじめ パート2 負い目のはずし方
先週の土曜日、職場でいじめに遭っている人たちが立て続けに3人も来たので、これはほっておけないと思い、この「今日のクライアント」 セクションのずっと以前に、一番はじめに書いた「社内いじめ」とはまた別なアプローチでこの問題に迫ってみよう。いじめる方は上司のケースが多い。相手は大体欲求不満や劣等感で飢えたオオカミのように犠牲者を捜している。そこへおとなしそうな顔つきでいると、一度でも引き下がったら最後、相手はサディズムの快感に酔いしれて止めどなく嫌がらせを仕掛けてくる。そもそも嫌がらせをする方には矛盾がある。嫌がらせは悪いことだとはいじめる方もうすうすは感じている。悪いことなのになぜ出来るかというと、相手の負い目につけ込むことが出来るからである。その負い目とは、人間は誰でも不完全だから過ちを犯した過去があり、それも犯罪のようなものではなくとも自分自身で納得のいかないものは負い目として残っていく。土曜日に来た3人が3人とも負い目を突かれた犠牲者になっていた。 一方でいじめる方は「おまえはどうせ悪いことをしてきたんだから少しぐらい苛められてもいいじゃないか」と自己正当化する。他方で苛められる方は過去の自分がどこかで悪い面もなきにしもあらずだから、自分はこんなことをされてもしようがないのかなあ、とぼやいているのである。こういったことを回避するには、自分は全然悪くない、そんなことをされる謂われはないとはっきり思わなくてはいけない。しかし悪くないという根拠が しっかりしていないと気合いが入らない。その根拠をどこに見出すか?そこで私の所へ困ってきた人には「贖罪」(しょくざい)という人間の原事実を認知することが出来る ように話してみる。そうするとほとんどの人はよく分かって、よしがんばれるということになる。それはどういうことかというと、簡単に言えば今まで生きてきて子供の頃から 成績はオール百点、オール5で、まわりの人もみんないい人で、といった風に余裕綽々でまるっきり楽しく過ごしてきた人はまずいない。 我々はいったんお母さんのおなかから出てきてしまったからにはどうあろうと死なない限りひたすら生きるしかない。そこで不完全な世界で不完全な能力を持って生きているからみんな苦しむのである。時には血を流して苦しむ。人間の心の奥は皆純粋だから、その苦しみの傷が残る。 では、そのような負の経験はちゃんと清算されたかというと清算されていないまま残っている。生きてきたことで必然的に傷つけられた痛みを示すことで、我々がたとえ一寸した過ちを犯したとしても、 自分の心の中で自分を責める倒錯した良心と取引が出来る。逆におつりが来るくらいである。それは自分自身の良心およびその延長上の神に対する免罪符になるのである。これが象徴的に表象化されたのが「磔 刑のキリスト」である。キリスト教で言うイエス・キリストの十字架を信じればあなたの罪は許されるというそのイエス・キリストとは 、あの歴史上のイエス・キリストである必要はなく、自分の心の奥で血を流していた自分自身である。イエス・キリストが実在したかどうかは問題ではない。むしろ文字通りの神の子などは存在しなかったと見なすのが現代人の常識であろう。しかし、なるほど確かに自分の心の中にもそのようなものがあると、この類似を認知していることによって自分は悪くないと根拠づけることが出来る。 イエス・キリストの十字架とは自分の心の負の財産を認知しやすくするための象徴による手引きだと見なせばよいのである。確かに多少の過ちは犯しましたが、清算されていない私の痛みと引き替えに許して下さい、ということである。 このような普遍的な人間の事実に気がついて、それを受け入れるならば実際自分の罪は許されてもいいんだと言う気になることが出来る。そして結果的にいじめという卑劣な悪を排除することができるのである。これが神話の持つ力である。そして本来、神の意志 あるいは正義の意志というものは人間が順調によく機能しながら生をはぐくんでいくことを願っているのだと信じることも必要である。両方の心の中に巣くっている倒錯した良心が 苛められる側の理不尽な生の苦痛を正当化させるのである。はっきり悪くないという態度を表明する力がつくといじめは退潮し、悪霊を追い出すことが出来る。
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